年月日 : 2011/7/7
投稿者 : 石本日和子さん

「震災体験のつどい」感想、被災地を訪ねて

2011年7月2日の集まりには、北は北海道から、西は兵庫まで。全国から参加者がありました。当日、フロアから発言してくださった兵庫の小学校教師石本日和子さんから、さっそく集まりの感想と、被災地を訪ねての感想が寄せられましたので、ご紹介します。


集会に参加された皆様。
とりわけ、子ども達のそばで、命と生活を支えてくださっている先生がた本当に、ありがとうございました。

どの発言も子ども達とともに、被災者として生きる教師の覚悟が感じられて心を打たれました。

発言に人の真実がこもっている迫力のある集会でした。

人々の個別の語りを聴くところから始めることの大切さを改めて思いました。

どうぞ、心からの感謝をお伝えください。
そして、ご健康に注意なさって下さい。

用心して、自分の体の声も聴いてほしいと
そんな時ではないと言われるのは覚悟で申し上げます。

さて、日曜日(7月3日)に、山下第2小学校と中浜小学校をみせて頂き、浜通りを通って仙台空港から帰りました。

以下は、外から眺めたものの感想でしかありませんが
書いてみようと思って書きました。

もし、現地の先生がたが読まれて不愉快な思いをされたらごめんなさい。

圧倒的な喪失感、虚無感に打ちのめされました。

何にもないのです。

タクシーの運転手さんの話では
自衛隊さんが、片づけてくださったと言うことでした。
しかし、降りてみると
そこここに、おしゃれなハイヒールだったり
ぬいぐるみだったりが落ちていて
確かに、ここに、生活があったのだと分かるのです。

小学校は、曲がりくねり、捨てられていました。

山元町というところは、いちご農家で裕福だった所だそうです。
子ども達の人数も少なく
小学校みんなが仲良く、学習にも熱心だったとタクシーの運転手さんは話してくれました。
事実
校舎は、鉄筋ですが、内装は、本当に素敵な木のつくりで
屋根は瓦ぶきです。
西宮の学校よりもずっと親密で丁寧な地域の小学校だったのだと
思いました。

だからこそ
小学校の先生は、
1年生の子どもたちを励まし
6年生の子どもたちを頼りにして
5キロもある道を避難させられたのだと実感しました。

津波に追いかけられながら
どんなに怖くて
大変だったことでしょう。
しかし、普段から絆のある小学校で
その力がはぐくまれていたからこそ、
無事に避難できたのだと実感しました。

近くの自動車学校の生徒や教員は
壊滅的だったと聴きました。

老人ホームの職員も
老人をかかえるようにしながら
津波に飲み込まれた人もいたと聴きました。

むごいことです。

さらに、
裕福だったイチゴ農家みなさんは
(残っている家の土台を見ると、大きくて立派な家が多かったです)
収穫の時を、流してしまいました。

手に入るべきお金が入らず
残ったのは借金だけで

しかも、畑には海水が流れ込み
仕事の目途が立ちません。
生活が成り立たない荒野に投げ出されているのです。

宮城の先生の話では、
お弁当を持ってこられない子が出ているそうです。

アメリカ軍は、仙台空港だけを復旧して去りました。
自衛隊は、津波の後片付けをして去りました。

世論は、原発に向いています(それも、充分ではありませんが)

津波を生きのびた人々が捨てられています。

ひょっとすると、政策的に捨て去られているのかもしれません。

そして、土地や漁業権を放棄せざるをえない条件を作り出し
TPPで、一気に農業団地や、漁業工場を作る復興を押し付ける気なのかもしれません。

私に、何ができるのか考えています。

私は、瓦礫の撤去やドロ運びにはあまり役に立ちません。

でも
もし、私の読み語りや
たのしいゲームや
小川さんと一緒なら、漫才も出来ちゃったりする
お笑いを生かせる場があるのなら
役立てて頂きたいのです。

広大な虚空の中には
人の死を悼む花すらありませんでした。

ゴミになるからと規制がかかっているのかもしれませんが
献花も無いという事実は
やりきれない思いを増幅しました。

それだからこそ
個別の話をうかがいながら
共に悼むことから、私のささやかな支援を始めたいと
思いました。

勝手な感想でごめんなさい。

現地で
私が活かされることがあれば
喜んで参ります。