7月29日に第5講の「2.末法と終末」を読み合い学習しました。
今回は、末法思想と終末論です。前々回が「カタストロフィ」(破局)を扱い、太田先生は近代の破局を展開しているのですから、その後に続くのは世も末としての末法であり、近代の終焉としての終末論へと進むのは事の道理として当然のように思いました。
テキストでは、平安から鎌倉時代にかけて広がった末法思想を取り上げ、末法の世を生きる人々には「世の災厄と荒廃を嘆き、おのれのなかに煩悩が頭をもたげるのを感じ、畏怖したのであろう」自覚と葛藤があるのに対し、同じように近代の終焉として末法の時代を迎えている私たちには、そのような意識も自覚もないと指摘します。そして、現代の末法の世を生きる私たちに問われているのは、平安鎌倉期における個我としての死後の問題を超えて、人類全体の生存が問われるような死後の問題、すなわち未来の人間の生存なのだと説いています。
また歴史の終焉を意味する終末とは、古い人間世界が崩壊し、「裁き」を受けるカタストロフィだが、それはまた再生のためのカタストロフィでもあり、よって、それは「本来神の約束の実現のときであり、生命の再誕生のとき」であり、「終末論は本来祝福の教え」であると述べています。
これまで太田先生は未来に対して大変悲観的に語ってきていますが、今回の末法と終末では、これから来るであろう破局を前にして、そこに何らかの希望を見出すために今何が求められるのか、また破局後の世界はいかなる希望の世界となるのかについての思索が少なからず語られているように感じました。
たとえば、現代についての私たちの使命として、
(1)近代の終焉を「軟着陸」させること、悲劇的なカタストロフィを回避すること。
(2)人間的原理にかなった新しい時代のための「地ならし」をすること。すなわち愛の原理が認められるような人間世界へと歩み出すこと。
近代と、その終焉後のポスト近代の世界については、精神のあり方が異なるとし、近代においては精神は原因結果、欲望充足という知的原理によって動くが、ポスト近代においては目的(希望)と愛(犠牲)という英知の原理によって動くということや、循環の思想が唯一の希望の論理となる」ことなどが語られています。
それらはまだまだ抽象的で、太田先生ご自身も十分にそれらについて論を深められていないと言われていますが、少なくとも次節の「目的と反目的」というタイトルは、それらに関わっての論が展開される事を予感させるものであり楽しみです。
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