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『教育』を読む会9月例会
日 時 2024年9月21日(土)
10:00~12:00
会 場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2024年9月号
内 容

特集1「危機的状況」のいま、語りと希望を生み出す職員室へ

 特集1のとびらには、職員室とは「教員と子ども・生徒、教員と教員の間で、人としての交わりが生まれるはずの空間」、あるいは「教員が語り合い、子どもとともに希望を生み出す場」だと語られている。そのような職員室が、風前の灯火となっている。
 そうなった背景に何があったのか。そして、この30年間に職員室という場から失われたものは何なのか。改めてそのことを問いながら、職員室の持つ役割と教師の仕事(専門性)を考えたい。 

特集2 生きることを支える表現を探る 

 子どもたちの生きづらさとその深刻化がさまざまに語られている。その中にあって求められる一つに、子どもたちの生を支える表現とその活動がある。しかし学校ではこの間、表現教科の時間も教科外の表現活動も減少している。他方で学習指導要領では「主体的で対話的で深い学び」が提唱され、「能動的な表現」が迫られるようになっている。
 特集では、今の子ども・青年の生きることを支え励ます表現を模索する学校現場(小・中・高)の実践から、これからの教育を考えてみたい。

前回の
様子

 8月24日(土)『教育』を読む会を開催しました。参加者は7名でしたが、活発な議論ができました。
 今回は、『教育』2024年8月号(943号)の第1特集「魅力ある授業をつく “教育の自由”」を取り上げました。霜村三二さんの論文「授業で自由を拡げるために」を輪読した後に、話し合いを行いました。
 「『個別最適化』という “ 美しい ” ことばでしばしば括られる」ものとは「裏腹のスタンダード、画一化の授業」(7頁)に対抗する教育実践を追究すればするほど、苦しくもなってしまうという指摘には、共感します。でも、松村颯希さんのように、「だれかに評価される授業」ではなく、「私も含めたひとり一人が、言葉を介して、戦争と自分に向き合った。それだけが真実だ。それだけでいいじゃないか」(「戦争はなぜやっちゃだめなのか」30頁)という思いで、教育実践をしている教師がいます。船越裕和さんの教室では、子どもたちが、日常の教師との関係性に見出される不条理を、教科の学びのなかでも考えていくことが保障されています(「授業は声を紡ぎ、希望をつくる営み」)。こうした教師たちの教育実践の営みを大切にし、励ましていくような学校でなければならないでしょう。
 霜村さんが指摘する「教師の教材研究が授業を深くする」(8頁)という点については、最近は、教科書でも物語文を深く読み取ることよりも、それを手段にしてより「実用的」なスキルを培うことが強調されている点が気になるという意見がありました。教科書会社が出している教師用指導書には、授業で行う発問や展開が細かに示されています。しかし、こうした「ガイド」は、学習規律が徹底し、想定された流れに従って進んでいく授業観に基づいて作られています。
一件活発に話し合いが進み、テンポよく進んでいる授業の中で、置いていかれている子どもはいないのでしょうか?
 教材研究を深めると、教えたいことが次々に出てきて、それが授業の展開と結びつかず、「失敗」してしまうこともあります。これは、教師の教育実践が深まる機会にもなるのですが、そういうことが評価されないと、教師もチャレンジすること、目の前の子どもたちと「弱さを共有し、一緒に悩み、共に創る」授業を楽しんでいきたい(内藤かんなさん「共に悩み・創る道徳の時間」24頁)という教師の声が聴かれなくなってしまいます。
 教師には“教育の自由”が必要です。霜村さんが引いている佐貫浩論文の「まともな意味における個別最適化」(8頁)というときの、「まともな意味」とは何かを、この特集全体で描き出そうとしているようにも思いました。子ども一人ひとりの声が聴かれ、互いの声に応答し合い、新しい世界が開かれていくような授業を全国の学校でいかに大切にしていけるか。
 学習指導要領を、「子どもが学べたかどうか」を一律に規定するものであると考えることは「非現実的」だという渡辺貴裕さんの指摘(「教育の自由と学習指導要領」51頁)は、この点と関わって重要だと思います。
                        (文責:本田伊克)