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『教育』を読む会8月例会
日 時 2024年8月24日(土)
10:00~12:00
会 場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2024年8月号
内 容

特集1 魅力ある授業をつくる“ 教育の自由 ”

 学校は今、心躍る豊かな学びの世界を子どもたちに手渡すことができているか厳しく問われている。授業がある種の型(スタンダード等)や形式的「学力」の定着に支配され、教師の魅力ある個性や熱い思いがないがしろにされ、子どもの生きた現実から学びを生み出す創造的実践も否定され、浅薄でつまらないものになっていないだろうか。
 教育は、そもそも時代の”閉塞”や進歩を阻む”枠組み”を乗り越え、未来を創造的に切り拓く力を持っている。”教師のしごと”は、現実と立ち向かい、今を生きる子ども達に寄り添い、教材や教え方を工夫し、子どもの瞳や心に驚きと輝きを生み出し、未来への生きる力とあこがれを育む大切な”しごと”だ。
 本特集では、教師の”教育の自由”とは何かを深く問いながら日常の実践に焦点を当て、教育内容や教材分析などにも触れながら、そうした視点をどう授業に取り込むことができるか具体的に論述してもらった。(「『特集1とびら』のことば」をもとに)

特集2「リアル」に触れる教育実践

 コロナ禍だけでなく授業時間確保や多忙化解消などの圧力などで、学外での学びの機会は周辺化されてきました。他方で、「主体的・対話的で深い学び」「アクティブ・ラーニング」が喧伝され、「なにかやってる」風の授業状況もあります。
 場の雰囲気や息遣い、・手触りなどの「身体」を介して得られる学習は、「頭」で理解するだけでは到達しえないアクチュアリティが含まれています。
 リアル/バーチャルの意味があらためて問い直されている今、「リアルに触れる」ことの意味を見つめ、表層的な「アクティブさ」に回収されない教育実践の意義を探ってみたいと思います。(「『特集2とびら』のことば」をもとに)

前回の
様子

 7月の「読む会」は、6月が流会となったため6月号と7月号をテキストに行いました。6月号からは伊藤理絵さんの「学校における子どもの笑いの両面性」を、7月号からは佐藤和夫さんの「若い世代と世界のリアリティ」を取り上げて輪読し、話し合いを行いました。
 以下は、会の様子というより筆者の感想です。

 6月号の伊藤さんの論稿は、笑いにおける親和性と攻撃性を中心に論が展開されます。なかではご自身の幼いころの出来事なども交えながら、「乳幼児期における社会的笑いは、相手への親しみを表す親和的な笑いとして発達していく」と言及する一方で、「自己と他者の区別が出てきて、他者から見られる自分を意識するようになるにつれ、笑われて恥ずかしいという感情も出てくる」と語られています。関心を持ったのは、乳児期の「相手」と「他者」とは同じではないのか? 同じでないとすると、どこがどう、そしてその違いをどこで乳幼児は識別しているのか。また最初に親和的な笑いを獲得するとして、そうでない笑いをどのような契機や要因のなかで形成獲得していくのか。そのあたりが気になりました。
 さらに、笑いには恐怖や緊迫した状況の中で、その緊張を和らげる笑い、それは意識的な笑いというよりももっと反射的なものかもしれませんが、そのような笑いもあるように思いました。そのような笑いはどう位置づくだろうかとも考えました。

 7月号の佐藤さんの論稿は、若者の現在について次のように言及している。「スマートフォンを持っていれば、インターネット配信で音楽や映画はいつも自由に楽しめるし、金さえあれば、自分の部屋まで食事を運んでもらえるし、欲しいものは洋服でも化粧品でも皆、家まで届けてくれる。しかし、こうした現代の生活は、若者に決定的な難問を引き起こしている」と。なるほど、今や時代は家の中で事足れりの世界になったのだ。しかしこのような現代生活は、「若者に決定的な難問を引き起こしている」と述べ、ボタンを押せば何でも得られるかもしれないが、誰からも必要とされない、つまりは「消費人間としてのみが必要で、一人ひとりのかけがえのないはずの人間が、次第に『無用化』していく」という。う~ん、確かに現代生活は、佐藤さんの指摘するような世界が拡がりつつあるのだろうと思う一方で、話し合いでは、それはやはり経済格差の拡大や地域格差を考えると、そうとも言えないのではないかとの声も。
 とはいえ佐藤さんが指摘しているような世界が拡がっていることも確かで、だからこそ「勉強はYoutube先生やChatGPTが教えてくれるのに、学校になぜ行くのですか」という疑問が子どもから出てきてもおかしくないし、ICT教育やオンライン授業が広がっていけば学校へ行く必要は?と考えることにもなるだろう。すなわち教師や学校の存在意義が今日、根本的に問われる事態になっているという。その指摘を受けて、教育関係者を含め大人たちは子どもたちにどう応えるだろう。そのことが問われている。
 佐藤さんは、長らく研究されているアーレントに寄りながら、そのことについて応えている。ぜひ、多くのみなさんとこれからの学校や教師の存在意義や役割について考え合えればと思いました。