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『教育』を読む会6月例会
日 時 2024年6月29日(土)
10:00~12:00
会 場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2024年6月号
内 容

【6月号】
特集1 「教員不足」時代の教師教育

「教員不足」が深刻だ。学級担任を確保できずに、管理職が担任をしたり、一人の教師が複数の学級を担当せざるをえない事態が全国各地でおきている。文科省・中教審はこれに対して多様な職種からリクルートしようとして特別教職免許状を発行するほか、免許取得者に対して「再就職」の呼びかけを行っている。さらには、教育実習さえ経験していない大学3年生までをも「採用試験」対象者にする動きさえ見せている。しかし、このようなやり方で、教師の専門性と熱意を兼ね備えた教員を確保できるとは思えない。
他方で、〈理論と実践の往還〉と〈実践的指導力の養成〉の名の下で行われている教職カリキュラム、教育実習、さらにはインターンシップなどの学校体験を重視する現在の教員養成のあり方についても見直しが必要だ。教職を志していた学生のなかで相当数の若者が、「学校現場」の厳しさや堅苦しさを実感し、かえって「教師になることをやめる(あきらめる)」という選択をしているからだ。
特集では、このような状況を踏まえた上で、本当の意味での教師教育における〈理論と実践の往還〉がどうあるべきかを考えるとともに、教師が専門職としての力量を獲得し、それを発揮できるような「学校現場」のあり方を検討する。
(「特集1とびら」のことば より)

特集2 学校での子どもと教師の笑いを問う

笑いには、人と人をつなぐ共感の笑いと、人と人を切り離す嘲笑の笑いがある。嘲笑の笑いは、強者から弱者に向かえば「いじりやいじめ」となり、弱者から強者に向かえば「抵抗や批判」の力となる。
日本の社会は、共感の笑いがみあたらず、いじりやいじめばかりに満ち、批判につながる笑いを共有できない、そういう事態になってはいないか。
学校ではどうであろうか。数値評価が充満した空間で、教師は笑いを失っていないか、子どもたちの笑いへのねがいに気づいていなくはないか、笑いをとおしての子どもたちとの回路を閉ざしているのではないか。
5つの論稿は、子どもと教師の笑いの可能性に光を当てるものとなっている。教師も子どもも共感の笑いで満たされる居場所としての学校はどうでき上がるのか共に考えたい。
(「特集2とびら」のことば より)

前回の
様子

5月の「読む会」は、特集1から岩川直樹さんの巻頭論稿「語るという原点」と、特集2から本田伊克さんの「『観点別評価』と『総合評定』の何が問題か」を輪読し、話し合いを行いました。
今回は、岩川さんの「語るという原点」に刺激を受けながら、自分の中で発光(発酵)してきたものを書き留めておこうと思います。
岩川さんは冒頭の見出しを「『なんか・・・』という原点」として書き起こします。そして「なんか・・・」と、人がつぶやくと、少しドキドキする。その後にどんなことばが生まれてくるのか、それを待つ時間が好きだと言います。また「なんか」に孕まれる「沈黙と発語のそのはざま、人はまさに語るということの原点を生きている」とも。今放映されている朝ドラ『虎に翼』の寅ちゃんの「はて?」も、その仲間かも? と思ったりします。

なんかおかしくない? なんかすごいよね! なんかわからない、その「なんか」が何か。「なんか」と感じる出来事や経験が抱えているもの・ことが何なのか。それを語る営みを岩川さんは「表現の様式であるとともに探求の様式でもある」という。その人固有の探求のかまえが立ち上がる。そしてそんな「なんか」に促されて、清眞人さんの「言葉さえ見つけることができれば」という著書タイトルにもなっている言葉が聞こえてくる。清さんは、アーノルド・ウェスカーの戯曲『友よ』の中から老ユダヤ人メーシーの次のセリフを引用している。

「しゃべらせてくださいよ!しゃべってはじめて自分の考えがわかってくるものでしょう。言葉なんですよ、言葉をさがすのです。言葉さえ見つけることができれば理解でいるはずです。突然わかるのです。」

しゃべることで見えてくる。その「なんか」が抱えている輪郭がうっすらと浮かび上がってくる。自分が思ってもいなかったことばが口をついて零れ落ちる。こういう経験が学生時代のゼミの中にはよくあった(つまりお偉い大学教授に教えを乞うような関係ではなく、対等で自由な「わからないこと」をわからないと言えるようなそういう関係性のなかで)。そして「突然わかる」。岩川さんの言葉でいうなら、「『パトス(情動)』と『エートス(倫理)』と『ロゴス(論理)』が一体になったような、その人の『まことのことば』が生まれる」ときと言えるだろう。またそれは、ことばにできない「なにか」が言葉によって、まさに「真・善・美」として経験される瞬間ということもできるかもしれない。ちょっと大げさかな?

本論稿では「語る」ことを主軸にしているので、語ることに伴う「聴く人」の存在は後景にしりぞいているものの、「聴く人」としてのあなたの存在にも触れて「語りが生まれるのは、目の前の聞き手とのあいだを生きているときだ」という。聞き手は目の前にいない時もあるかもしれない。ときにはそれは、もう一人の「自分」かもしれないが。しかし語ることの向こうには、誰かがいなければいけないのだろう。そんなことを本論稿を通して岩川さんと、そして清さんとともに生きてみた。