New

『教育』を読む会5月例会

日時 2024年5月18日(土)
10:00~12:00
会場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2024年5月号
内容

【5月号】
特集1  子どもを語る言葉をとりもどす
特集2  中学校における観点別評価

【特集1】
膨大な日々の業務のなかで子どもを語る場や機会が奪われ、また学校を取り巻く評価のまなざしが子どもを気軽に語ることの障壁を時に作り出し、子どもを語る言葉の変質を生じさせていないだろうか。特集1では、職員室での立ち話や学級通信の一言、子どもとの何気ないやり取りの振り返りなど、まさに日常のなかに埋め込まれている子どもを語る言葉の営為を見つめ問い直します。

【特集2】
2019に改訂された指導要録は、全教科に一律に3つの観点(「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度)を導入した。特集2では、それにともなって評価・評定をめぐる問題や困難が中学校現場でどう表れているのか、その実態やメカニズムを明らかにしていきます。

(各特集の「表紙のことば」、「編集後記」をもとに作成)

前回の
様子

4月の「読む会」は、新年度のスタートダッシュでみなさん疲れぎみだったのでしょうか。参加者は6名と少なかったですが、話し合いは楽しかったです。
今回は、まず特集部分は脇に置いて、会の運営の中心を担ってくれている本田伊克さんが奈良教育大学附属小学校で起きている問題について書かれた「奈良教育大学附属小学校問題で問われる学習指導要領の法的根拠」を読み合いました。
本田さんは、本件事案に対し「奈良教育大附属小を守る会」の賛同者としても名を連ねています。そして今回の問題については2024年1月9日に奈良教育大学が提出した報告書が指摘する不適切事項と、そのことへの対応の異様さ異常さについて、学習指導要領の法的拘束力という観点から分析し見解を述べています。その内容については、ぜひ『教育』4月号をお読みください。
話し合いでは、この問題に対するこれまでの奈良教育大学の対応のあり方や、マスコミや大学さらには教育委員会を含む一連の動きをどう見たらいいのかなどについて、本田さんからのレクチャーなども含めて交流しました。
次に特集に戻って、特集1の中村(新井)清二さんの「〔手紙〕若い教師のみなさんへ」を読み合いました。中村さんは、教育政策や教育行政が求める画一的な実務的教師像に対して、あなたらしい教師になるために何が必要かを問い、その手立ての一つとして教育実践記録を書くということ、そしてそれを読み合い話し合う仲間をつくることのススメをしています。そのためには、まずはあなたの、あなたらしい教育や物事に対するこだわりや引っ掛かりを大事にすること、そしてそれをとっかかりに実践していくことの大切さを述べています。また、学習をおもしろくするためには、失敗や逸脱を許容し共感する自由な雰囲気がクラスにあることの重要性を、遊びにおける「様式化」と「脱様式化」をもとに言及しています。
話し合いでは、子ども理解とそれにもとづく子どもの成長や変容を語る実践記録はいろいろ出ているが、教科教育の授業を中心とした実践記録は少なくなっているのではないか。先生たちのサークル活動が少なくなる中で教育実践を書いたり発表したりする機会がなくなってきている。また、どのような観点や視点から実践記録を書くのかということも考える必要があるのではなどの発言がありました。
個人的には遊びにおける「様式化」と「脱様式化」に関わって、本誌『教育』の内容からは外れますが、「センターつうしん114号」に掲載された制野寛さんの実践について考えました。制野さんの実践は体育の授業として取り組まれたもので、最終的には高跳びの実践へと発展するものです。「つうしん」では、その前段階の「台車でガツン」「平均台遊び」「バランスボール」「バトン投げ」「跳び箱ジャンプ」「壁登り」の取り組みが報告されています。(詳しくは「センターつうしん114号」をご覧ください)これらの取り組みには、おもしろさとしての「様式化」と「脱様式化」を見て取ることができると思いました。と同時に、そのおもしろさは、私の子ども時代にはまさに遊びのなかにあったとも感じました。そして、その違いから次のようなことを思いました。
今の子どもたちの遊びから、よもやワクワクしたりハラハラドキドキしたりする冒険性や逸脱性は消えてしまっているのか? そのような冒険性や逸脱性に満ちた遊びは、本来は子どもたちの自由な遊び時間・世界のなかにあったはずで、自由だからこそ、そういう冒険性や逸脱性に満ちていた。ところが、そのような遊び的要素をふんだんに含んだものが制野さんの授業(ある意味で組織され管理された世界)の中で復活するという不思議?と、嬉々としてその取り組みを楽しむ子どもたちの姿。そこから今を生きる子どもたちの世界とともに学校や家庭のあり方や課題が見えないか、見えてこないか? などということを、とりとめもなく妄想しました。