『教育』を読む会 7月例会

日時 2019年7月20日(土)
10:00~12:00
会場 みやぎ教育文化研究センター
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参加費 無料
テキスト 『教育』2019年7月号
内容

特集1 子どもが決める
特集2 主体として生きられる教師へ

表紙のタイトル「子どもが決める」をみて、「何を決めるんだろう?」と思いながら表紙をめくると、「とびらのことば」には、「自分で決められる場としての学校を」と記されていた。
日本国憲法13条の「個人として尊重される」や25条の生存権、また子どもの権利条約が謳う「意見表明権」や「結社・集会の自由」を踏まえるとき、子どもたちは権利主体として尊重され生き生きと学習や生活をおくっているのか。
そういう問いを今の家庭や学校や地域社会に抱きつつ、特集1では「権利主体としての子どもが生き、学ぶとはどういうことか」を、様々な実践をもとにしながら考える内容となっています。

特集2は、「主体として生きられる教師へ」というタイトルの「生きられる」という言い回しからわかるように、子どもたちだけでなく今の学校で働く教師たちも、長時間過密労働や教育活動に対するさまざまな規制のなかで、息苦しく生きづらい状況が生まれてきています。またタイトルの「主体として」という言葉を考えると、教師が教師になるとはどういうことなのかという問いも密接にかかわっているように感じます。特集2は、教師としての「わたし」のありかを問う内容となっています。ぜひ皆さんご参加ください。

 

前回の
様子

新たに参加者が増えるのは、これまでにも増して刺激と活気が生まれいいものですね。それぞれ忙しいなかでの参加で、継続していくのは大変だということもわかりつつ、それでもやっぱり参加者が多いと元気になるなあと感じます。みなさん、ぜひご参加してください。待ってます。

というわけで、6月の例会は、いつも参加しているメンバー3名が欠席にもかかわらず新たに3名の初参加があり、10名の参加者で、楽しいひとときとなりました。今回は、鈴木大裕さんの「過疎地からのパラダイムシフト」を読み合いました。
鈴木大裕さんは、人口850万のニューヨークから4,000人の高知県の土佐町に移り住みました。そして、その過疎地である土佐町に「貨幣は少ないが暮らしは豊か」という希望を見出し、崩壊しつつある「公教育」の再建による民主主義の再生の可能性と現実(課題)を、地域の人々とのかかわりなども交えながら論じています。報告からは研究者としてだけでなく、主体的に教育に関わる実践家(市民)として姿勢も強く感じるものでした。

過疎地の人と人とのつながりの豊かさに教育の可能性を見出す鈴木さんとは対照的に、主に都市近郊で仕事をしてきた教師からは〈地域は学校を忙しくする天敵という印象を受けてきた〉という意見や〈無理難題を要求する保護者〉の姿などが語られる一方で、北海道からこの4月に仙台に研究者として来られた方からは、北海道には、鈴木さんの言われる貨幣経済に還元されない地域の人々の豊かさは健在との話などがありました。
それは都市部と農山村地域との違いとして見ることもできますが、様々な人が出合い交差するということに公共性を位置付けるなら、それは近代における都市にこそ見出されることでもあったように思います。報告者は千葉の団地で子ども時代を過ごしましたが、そこでは鈴木氏の言うような隣近所との濃密な関係を含めた助け合いがまだまだ成立していました。鈴木さんは、公教育の再建を過疎地に見出し、そこから民主主義の再生へと向かう一つビジョンを模索し実践しているが、それは過疎地だけでなく取り組む課題でもあると思いました。
と同時に、北海道から来た研究者からは、保護者が学校に積極的に関われる背景には、酪農や農業に関わる保護者が多く時間的に融通をつけやすいこともあるのではないかとの意見も。鈴木さん流に言えば、貨幣経済に依存せざるを得ない都市近郊の保護者と、それ以外の「物々交換経済」「貸し借り経済」「自給経済」などの多様な選択肢に支えられた農山村部という、人々の生活を支える土台の違い(生産と消費が密接に結びついているところと、そうではなく乖離しているところ)なども地域や保護者の学校へ向けるまなざしや要求、関わり方の違いとして反映しているだろうと感じました。
他には都市部の学校の教師からは、教育内容にまで意見を言ってくる保護者をどう考えたらいいのかという悩みや、管理職が2、3年で異動する状況のなかで管理職自身が子どもや地域に本気になって向き会う条件と機会を失っているのではないかとの話もありました。

また生まれも育ちも仙台という生粋の当センター所長は、80年代以降の仙台における政令指定都市を目指しての周辺市町村の合併は、地域の人々の生活を考えると決してよい事とは言えなかったこと。そうして農山村部を無理に合併しておきながら、それら周辺地域の学校が小規模化すると市が一律に決めた学校適正規模の基準にもとづいて学校統廃合を進めるという理不尽さと問題点が指摘されました。また教育行政は、もっぱら自ら定めた狭い枠組みのなかでのみ議論しようとするが、ノーム・チョムスキーの「民衆を受身で従順にしておく賢い方法は、議論の枠組みを厳しく制限し、その枠組みのなかで活発な議論を奨励すること」とあるように、制限された議論にはを十分注意してかかる必要があるとの意見もありました。
このノーム・チョムスキーの引用を巡っては、参加していた他の教師たちからは、(地域と学校と言う枠組みを超えて話は広がり)道徳や学力向上などの取り組みに対して、ややもすれば学習指導要領や指導書という狭い範囲での議論に陥って、そもそも「道徳とは?」とか「学力とは?」、あるいは「指導とは?」という議論がすっぽり抜け落ちてしまいかねない、そうした現状や危険性も語られました。

さら過疎地などでは、若い人たちに移住してもらうためにいろいろな教育環境整備や支援の取り組みを行政あげて取り組んだりしているが、教育委員会などは「学力向上」に関するものを前面に打ち出すなど、その打ち出しの方向が地域住民や教師が考える学校や地域の魅力とはずれたものになっているとの言及もありました。