ゼミナールsirube 5月例会

日時 2019年5月20日(月)
13:30~16:30
会場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 当日配付
内容

デュルケームにひき続いて、今回も社会学黎明期の主要人物の一人であるドイツのジンメルを取り上げます。ぜひご参加下さい。

前回の
様子

デュルケームによれば、歴史上存在した教育は、一定の社会組織と結びつき固有の型を持っているという。そして教育の目的は、わがままで気ままな不安定な存在である子どもを社会の欲するところの人間として育成することにあるという。
学校教育は、そのような不安定な存在の子どもたちに、道徳教育を通じて規則正しい生活態度(規則性を好む心性)と規則に内在する固有の権威に対する感覚、すなわち規律の精神を育てることが求められた。それは欲望の阻止における自己支配、自己規制の確立であるとも言える。この規律の精神は、私的な場である家庭では形成されないものであり、まさに集団生活が基本となる学校教育が担うべき役割だという。
なおデュルケームにとって規律は、人間本性にかなうものであり、本性を正しく具現させる手段である。規律は本性を抑圧したり破壊したりするためのものではない。社会一般には無規制の自由を称揚し、その功徳を説く理論もあるが、自由はそもそも規律によって育まれた果実であり、自由は規則によってのみ可能なのだという。
またデュルケームは、欲望の阻止を要求する道徳とは広大な禁止の体系であり、規則によって命じられる行為は、非個人的(利他的・超個人的)な目的追求という性格を示している。では、その禁止を要求する本源はどこにあるのか。デュルケームによれば、それは人間の内部にあるのではない。それは社会にあるのだという。そこから社会集団に対する愛着の義務や、人類という理念の権限としてとらえられた祖国(現実的には国家)への愛着の義務が生じることとなり、「学校は祖国を認識し、これを愛することを児童に系統的に教えることのできる唯一の道徳的環境である」と述べている。

ではデュルケームは、どのような考えに基づいて規律の精神や社会集団ならびに国家への愛着などを子どもたちに育もうとしたのだろうか。
デュルケームが着目した中心的原理は、子どもにみられる二つの基本的素質である。一つは覚えた遊びや昔話を飽きもせず何度も繰り返し行ったり求めたりする伝統主義であり、もう一つは命令的暗示に対してほとんど抵抗することなく具体的行為へと移行する受容性・受動性である。つまり子どもは示された模範をいとも簡単に受容し、またそれを繰り返し模倣する存在であるというのだ。デュルケームは、そのような子どもの素質を利用すれば、規律の精神は、無用な強制力を施すことなく子どもたちに形成することができるとした。ただし、そこでもっとも重要な役割を果たすことになるのが、子どもたちに模範を示すことになる教師という存在だ。デュルケームは、教師は「規律の守護者」として、毅然とした態度と十分な権威がなければならないとした。
もう一つデュルケームが注目するのが、私たちのうちにある愛他主義(愛他性)である。子どもは自己の存在を他の存在(例えば母親)に結びつけようとする欲求があり、その関係が断ち切られることを苦痛に感じるという。このような愛他主義は先に述べた伝統主義、すなわち何度も繰り返すことを好むという習慣への愛着とも関連しており、子どもはいつも一緒に寝るぬいぐるみや大好きなおもちゃなど人間以外の事物にも愛着をもつという。また子どもの受動性による模倣という行為も、他人の感情を模倣することを通してその感情を共に分かち合う能力や共感する能力など、すぐれて愛他的かつ社会的な性向の原初形態を形成することに他ならないという。
デュルケームは、このような子どもたちのうちにある愛他主義や伝統主義、そして受容性などに依拠しながら社会集団や国家への愛着や意識を、学校教育における知的学習(科学教育)を通して形成するとした。

なお、デュルケームに関わって太田先生から次のような興味深い話もしていただいたので、以下に掲載します。

1)デュルケームのような道徳思想・人間観は西洋思想のなかに根深くある。それは、アリストテレスがニコマコス倫理学で述べた「人間は社会的動物である」というテーゼだ。この言葉が西洋社会科学の原点と言える。これ以外の西洋思想を代表するもう一つのテーゼがプラトンテーゼ。あえて言えば人間はイデア的動物であると。プラトンの中心カテゴリーはイデア。イデアとは理想、理念、あるいは観念。もっと言ってしまえば心。それに対比するならアリストテレスの社会的動物とは現実となる。つまりプラトン、アリストテレスのときから西洋思想は片や理想主義者、片や現実主義者という二つの大きな流れがある。常に後者の現実主義が優勢でありながら、それでも理想主義は絶えることがなかったというのが、これまでの歴史の流れ。その現実主義の最右翼にデュルケームは位置すると言える。

2)このようなことを述べるデュルケームの背景には、彼なりのフランス危機論があった。フランスはヨーロッパのなかで特殊な国家であると思っている。イギリスは着実な経済と議会制政治の歩みを踏んできた。ドイツは土着的なギルドとか自由都市とか地方分権とかを持っている。フランスはどうかというと、幸か不幸か1789年に革命してしまった。革命とはそれまでの社会をぶっ飛ばすこと。単なるバスティーユの中央政府の事件だけでなくフランス全土の古い秩序、古い社会集団が壊された。何にもなくなってしまった。そういう意識がデュルケームにはある。
彼はゼロ状態から人間の組織化をどうしたらいいかということが問われているという危機意識を持っていて社会学をつくった。彼なりに社会学の根本的必要性がある。だから最後には、フランス精神を再興させるということになる。でも、それは既存の大人社会では無理だから、それを学校に求めた。今やフランスにあって唯一の社会らしい組織というのは学校しかないというのが、デュルケームの内なる本心だと思います。だから道徳教育論なんていうものを書いた。