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『教育』を読む会 12月例会
日 時 2025年12月20日(土)
10:00~12:00
会 場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2025年12月号(ない方にはコピーをお渡しします)
内 容

【12月号】
特集1  通信制高校の広がりを考える

特集2  教育系NPOと公共性

 通信制高校は、中卒後の働く「勤労青年」や高校中退者などに高校教育を受ける機会を提供してきたが、今では信制高校を自ら選択して入学する生徒が増えている。
 特集1では、通信制高校は生徒たちにどのような高校生活や学習の場を提供しているのか。様々な通信制高校が存在する現状における制度上の課題、生徒の実態に即した実践上の課題などについて考えてみたい。

 特集2は、特集1の通信制高校への進学増加とも関連して、現在の学校の閉塞感や抑圧感に対して「新たな教育の可能性」を提示し活動する「教育系NPO」を取り上げる。教育系NPOは、ときに公教育の解体を推し進める存在とみられる一方で、反対に公教育の枠を広げる存在ともみられてきた。ここでは、教育の公共性という観点から「教育系NPO」がどのような役割を果たしているのか、果たすのかについて考えてみたい。

 なお本号は「日本学術会議問題」について【特別企画】を組み、教科研委員長の片岡さんをはじめ副委員長の本田さんほか梅原さん、三石さんの4名が、「わたし」にとっての学術会議問題を「わたし」のことばで論じる。

 

前回の
様子

 今回は、特集1「学校・地域に“子どもの時間”を取り戻す」を中心に議論しました。増山均論文「子ども期の保障と『子どもの時間』」を輪読し、意見交流をしました。
 増山論文の「あそび・遊び」については、「もっとあそびがあった方が緩やかにできる」というような、「ゆとり」とか「間」に近い意味の「あそび」と、他の目的のためではない、それ自体に価値のある行為としての「遊び」とを分節化したうえで、現在の学校・地域における両者の不在を問題提起しているものと読みました。
 日本の学校には、「➀ゆっくりでいいんだよ、②失敗してもいいんだよ、③自分たちで決めていいんだよ」という点が子どもを捉えるまなざしに欠如している(5頁)という指摘には共感しました。
 また、「子どもの余暇権(あそび・気晴らし)」の理解(9頁)については、教師自身の置かれた労働条件を見直したり、私たち大人がすでにミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する「時間泥棒」の影をまとってしまっていることに自覚的になる機会をもったりしないと、つまり、学校・地域に「あそび・遊び」の文化を取り戻さなければ実現しないのではないかという議論にもなりました。
 重要な指摘だと受け止めつつ、なかなか実現が難しいという意見が出たのは、「災害ユートピア」の中、「門扉の向こうに見える可能性」、「生まれ出た可能性」を、「日々の学校・地域生活に引き込み生かす努力を忘れないこと」(7頁)というときの、「可能性」とは具体的にどのようなことを指すのか。
 この点に関わって、増山が余暇権として指摘する6つの「自由時間の過ごし方」(9頁)のうち、「教育」や「指導」を重視する学校にとって認めやすい「➀好きな学習や芸術・スポーツをする」「②読書や工作、収集などの趣味の時間を過ごす」「③ボランティア活動などに打ち込み、社会や人に役立つことをする」に対して、「④娯楽やゲーム・遊びの時間を楽しむ」「⑤のんびり、ぶらぶらして、息抜きや気晴らしをする」「⑥ただなんとなくボーと時間を過ごして暇つぶしする」は認めにくいが、子どもの権利として容認されるべきだという指摘があります。
 この部分は重要な指摘であると受け止めましたが、この特集の他の論稿を見ると、全体として、学校や地域の日常にもっとゆるやかさやおおらかさを取り入れる「あそび」の側面はよく見えましたが、震災、新型コロナ禍等において災害ユートピアを経験した学校に開かれた「遊び」の復権の「可能性」はあまり見えてこないように思いました。また、増山氏が挙げる自由時間の過ごし方について、➀➁➂についても、競争や評価に囚われないような、子どもたちが豊かな文化や他者と出会う機会とすること、④⑤⑥には娯楽産業など市場の力も入り込み、そこから子どもを守ることも、子どもの権利を保障する大人の義務であることなども議論されました。
 「遊び」は「遊ばされている」と気づいた瞬間に魔法が解けて、遊びでなくなってしまいます。子どもたちは、そうした瞬間に、もう一度遊びの世界を修復し、豊かにしていく力も感じます。そういうことも大切にしたいですね。
(文責:本田伊克)。