企画・講座
TOP > 企画・講座 > トップページ表示 > 『教育』を読む会1月例会
『教育』を読む会1月例会
日 時 2025年1月25日(土)
10:00~12:00
会 場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2025年1月号
内 容

【1月号】
特集1  ICT教育と探究学習の定型化を超える知を

特集2 学校教師と教育系NPOのはざまで揺れる

 特集1では、ICT教育が推進される中で、教えと学びの教育実践がどのように変わり、またそのような変化の中でどう教育実践を創造していくことが求められるのかを考えます。
 特集2では、教職を一度は志しつつも塾・教育産業や社会教育、NPOなどを自らの進路として選択し、働く若者たちの物語に焦点を当てながら、彼らの今を追うとともに現在の教育の問題や課題について考えます。
 今回は、1月号に執筆いただいた髙橋桂吾さんにも御参加頂く予定です。雑誌が手元にない方も気軽にご参加ください!

前回の
様子

 宮城『教育』を読む会2024年12月例会の感想

 12月21日(土)9:30~12:00に、みやぎ教育文化研究センターで、『教育』を読む会を開催しました。参加者は8名でしたが、活発な議論ができました。
 今回は、『教育』2024年12月号(947号)の特集1、特集2から1本ずつを選んで輪読した後に、話し合いを行いました。
 特集1「オルタナティブ教育が示す『学校の姿』」からは、吉田敦彦さんの論文「オルタナティブ教育が公教育全体に与える影響」(5-12頁)を輪読した後に、話し合いを行いました。
 吉田さんは、日本の公教育を全体としてよくしていくためには、従来の「公/私」二分法的な線引きに収まらない「草の根市民の側から新しい公共性を創発する志向」(9頁)が大切であるとします。
 そのためには、「一条校主義」(6頁)を組み替え、多様性ではなく「別様性」を尊重する「教育主体によって、市民セクターで自発的に創出された代案的な学び場」(8頁)を公教育全体に組み入れる、「応答的包摂型の公教育」を構想します。
 それが、図1(11頁)に示されています。この図で鍵となるのは、一条校の内/外の境界領域に、<縁側>としてイメージされる対話のトポスを設定することです。
 現在の公教育制度の周縁部に、<内でも外でもある>ような「風通しのよい場所」をつくることで、「学校教育法と、対象範囲を拡張する改正を行った教育機会確保法との、学習権保障の二本立て法制」が提案されています(同上)。
 吉田さんは、「変革は、中心からではなく周縁(ふち)からのインパクトで起動」する(12頁)と言っていますが、たとえば、1960年代に実現した義務教育段階での教科書無償化が、被差別部落の子どもたちの教育を受ける権利保障を実現する運動のなかで実現してきたことなど、実際の教育の歴史のなかでも実現してきた側面があります。
 そのようなことも考えると、魅力的で、説得性のある構想だと思いました。
 問題は、こうした「二本立て体制」を保障する財政的条件や制度運用における公正性の確保などを合わせて考えていかないと、<縁側>はあくまで<縁側>にとどまり、「お互いにどちらかに収まっている」ことを認め合うことに留まってしまうのではないか。また、かつては子どもの「全面的発達」や「国民教育」など、時代的・社会(学)的な限界を抱えながらも、公教育をよりよいものにしていく方向性を共有する「ことば」がそれなりの力をもっていたが、今は、「個別最適」化に対抗しうる明確な方向性とそれを共有するための「ことば」がないのではないか。そんな発言がありました。
 ちなみに、オルタナティブ教育が「普通教育としての学び」として何を、どのように保障するのか。吉田論文には「就学義務」から「学習義務」への転換という考えが示されていますが(12頁、特集1全体を通じて、この点が必ずしもクリアには見えていない気もします。この後に続く各地の様々な形態の「オルタナティブ教育」の事例から読み取れるところもあるのでしょうね。また、山本宏樹さんの論文(「文科省『学びの多様化』政策を検証する」)では、「学びの質」の保障が子どもの権利の保障のために重要であるとされ、この点でデータ駆動型教育に期待する(21頁)とあります。データ駆動型教育が、たとえば校内教育支援センターの「学び」を「『教室での学び』の劣化版」(17頁)にさせないことに、どのような有効性を発揮するのか。その点も議論を深めたいと思った点です。
 特集2「『個別最適な学び』ってなに?」からは、佐藤隆さんの論文「『令和の日本型学校教育』の非教育性」を選んで輪読し、話し合いをしました。
 「個別最適な学び」の「最適」とは、「外から提示される目的・目標に子どもを主体的に取り組ませる装置」(65頁)において、あらかじめ決められた近未来社会像(=「期待される人間像Society5.0版」)に有用な資質・能力を個人の努力と責任で獲得することにおける「最適」性である(64頁)ということです。
 議論になったのは、著者はガート・ビースタの議論をどのように引き取っているのかという点です。「学習」は基本的に個人主義的な概念であるというビースタの指摘を、著者も共有し、「個別最適な学びと協働的な学びの実現」は結局、後者を前者に「還流」し、(「協働的な学び」と何らかの意味で関わりつつ最終的に実現した)個人の学びの成果に対する評価(「格付け」)となっていくと指摘しています(64頁)。
 ですが、この論文の後半では、「個」と「集団」のダイナミズム(66頁)について指摘し、「令和の日本型学校教育」にそうした契機があるのかと疑っています。このとき、ビースタの「学習」概念を著者はどう位置付けているのでしょうか。乗り越えるべきものだと考えているのかどうか。ビースタの指摘する学習は「内容と方向」に開かれている「プロセス」であるという点(64頁)と合わせて、集団での学習のプロセスとそこでしか育たないものをビースタの論との関係でどう位置付けているのかが、今一つ明確でない印象をもちました。(本田伊克)