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『教育』を読む会12月例会
日 時 2024年12月21日(土)
10:00~12:00
会 場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2024年12月号
内 容

【12月号】
特集1  オルタナティブ教育が示す
「学校の姿」
特集2 「個別最適な学び」ってなに?

 不登校の子どもたちの急増に対応して不登校特認校(学びの多様化学校)の設置など、さまざまな施策が打ち出され、学校以外の子どもたちの学びの場が用意され始めています。しかし現状では子どもたちの「受け皿」「避難所」として許容しているにすぎず、学校そのもののあり方を問いなおすところまで進んでいません。そのような中で、保護者や市民が「もう一つの学校」(オルタナティブスクール)の開校に取り組んだり、通わせたりする動きが全国的に広がっています。こうした「もう一つの学校」の取り組みと展開から、特集1では「これからの学校像」を模索してみたいと思います。

 特集2では、学校現場でよく語られる「個別最適な学び」が、教育をどのように変えようとしているのか、そして学校現場ではそれらがどのようなものとして実現化しているのかをみていきたいと思います。
(特集1,2の扉のことばを参考に)

 

前回の
様子

 2024年宮城『教育』を読む会11月例会の感想

 11月16日(土)の10:00~12:00、みやぎ教育文化研究センターで『教育』を読む会を行いました。参加者は8名でした。

 2024年11月号の特集1「学校の『男性性』を問う」について、前川直哉論文「男性性と教員の『暴力』」をまず輪読し、話し合いをしました。
 「ジェンダー」について社会学からの問題提起があり、この視点は私たちの社会の中にともあれ浸透しています。ジェンダーに関する探究のなかから、当初は、「女性」というカテゴリーや「女性(女)らしさ」が求められるマクロな社会構造とミクロな相互作に女性差別を強化するバイアスが忍び込み、学校教育の「隠れたカリキュラム」としても作用していることが多くの人々に知られ、この問題を克服する取組みも積み重ねられてきています。
 そうしたなかで、「男性性」や「男性(男)らしさ」を教育や、家庭や、社会で刷り込まれてきた人々もまた苦しんでいるのではないか。そうした視点からの研究も進み、性についての多様性を尊重することの大切さも認識されるようになってきた今、学校の在り方を根本から問うことを目的に、この特集が組まれたのだろうと思います。
 もともと人に高圧的な言動をとるようなこととはおよそ無縁だった女性が、中学校に勤務して何年かして会ったら、生徒に「おいこら!さっさと並べ!ちんたらしてるんじゃねえぞ!」と「言える」ようになったことを、自らの「教師としての成長」として語っている姿に、違和感を覚えた記憶があります。小学校でもそういうことがあるかもしれません。
 学校には、どうしても、ある種の「圧」で子どもたちを押さえつけようとすることが正当化されがちな風土があるように感じることもあります。そういうことにも関わって、この特集を興味深く読みつつ、参加者の間では、多くの疑問も出されました。
 まず、扉のことばで、「男性性」=「論理や理性」あるいは「理性・客観性・自立」であると読まれかねない記述がありますが、このような捉え方で大丈夫なのか、違和感を感じる参加者もいました。
 前川さんの挙げる7つの「暴力」(5頁)については、すべて暴力と言われると自分もやっていることがある、いや、自分は一つもない、など、教員の参加者の間でも感じ方が違っていました。
 前川さんが指摘する「暴力」に自覚的であること、つまり、「被害者に恐怖を与える」「被害者から自由を奪う」「暴力は相手をコントロールする手段になる」(6頁)ことに自覚的になる必要性は感じます。ただ、この暴力性を、直ちに、「根源にある学校に埋め込まれた男性性」(10頁)として、その依存の克服の必要性を説く論の展開には、いささかの飛躍も感じます。
 たとえば「権力性」などということばで問題を捉えることではだめなのか。「指導死」ということばがあるように、指導という名のもとに子どもを死に至らしめる「暴力」が正当化されやすい学校・教師の在り方を、あえて「男性性」ということばで語る必然性が今一つピンとこない。読者から出された率直な感想でした。
 教科研が研究してきた「自己の育ち」、大切にしてきた「子どもの声を聴く」という営みの不十分なところを、「ひとのからだ、生きることそのものを、従来の男性性を軸にした学校から解放する」ことで状況を打開していく(大江未知論文「『男性性』の“くびき”をまなざす」、19頁)ということの大切さに共感しつつ、では、この特集全体で検討されている「従来の男性性」とは何かがやはり今一つ捉えきれない印象もあります。
 男子校には女性の教員が少なく、「女には教わりたくない」という雰囲気がみられた(る)とか、生徒になめられないために、女性教員も「強く」指導できることを求められるという経験はあるなあという話はあって、そういう点とこの特集の問題意識は重なるのかもしれません。
 また、共学化したがほとんど女子生徒の高校で過ごした男性の学生が、「マイノリティ」性を体験し、大学で共学になったら「どう振舞っていいのか戸惑った。こういうとき(共学で同性の友達と話したり、異性の友達と会話したり学んだりする際)の振舞い方がわからなくなった」と語っていたことも思い出しました。
 社会学(的な視点)は、私たちの社会の中にある、そのままではみえない構造や関係性を見出す「視点」を培うことと。それに基づく行動を起こすことを求めますが、その道のりが容易でないことは確かです。
 この特集を、「当然の問題意識が書かれている」「今すぐにでも実践すべきだ(あるいはもうしている)」と思って読める人と、そうでない人との間に生じるギャップが大きくなってしまうと、「意識高い人にはできるけど」となりかねないのではないか。仮にそうなってしまったら、広く人権を守り、実現していこう、そういう社会を皆で作っていこうとする動きが分断されてしまわないかという意見もありました。
 最後に、いま撤廃が議論されている「103万円の壁」等について、これこそまさに、もう少し働けるようにしつつ、扶養控除は維持し、性別役割分業に基づく隠れた労働(シャドー・ワーク)を正当化し、そのコストを税金で賄うものであり、これに対して、どう考えるのか?という意見もありました。(文責:本田伊克)