年月日 : 2012/2/13
投稿者 : 牧野みどりさん

М子の旅立ち-放射能から逃れて

東京で暮していた 姪のМ子が、昨日、台湾にむけて旅だった。

昨年末、36歳にして授かった子どものいのちを放射能被害から守るための移住である。彼女の住まいはいわゆる「ホットスポット」のある地域だ。子どもの父親は台湾 で仕事をしていたこともあり、当時の友人たちの助けを得て移住後の住まいや仕事の目途があるとは言え、大きな決断だったろう。

旅立ちを前にして送られてきたメールには「自分で決めたことだけれど、荷造りをしながら涙がとまらなかった。子どもの成長を大好きな人たちに見てもらえないのは寂しい。放射能のことがなかったらこんな思いをしなくて済んだのに、これも人生なんだろうけれど」とあり、また、自分達が「脱出」することに対しての罪悪感も記してあった。

彼女の子ども時代の日々は私たち夫婦にとっても身近なものだった。どのような選択も彼女の選んだ道ならば応援していこうと思いつつ、寂しさとともに何ともやりきれない思いがある。

遠く離れ住むことに、ではない。今、М子のように小さな子どもを持つ日本中の人たち皆なに、安心して子育て出来る状況を作ってあげられないことに対しての、私たち世代が持つ責任の大きさが思われてならないのだ。

だいぶ前になるが、第五福竜丸の乗組員大石又七さんのお話をうかがったことがある。以来、国策としてどのように原発を導入して来たのか、自分なりに関心も持ち、少しは学んできたつもりだったけれど、それは「知識」を得たことでしかなかったことに我ながら愕然とする。私自身の生活の何一つも変えて来なかったのだから。

国策として「脱原発」をめざしていかなければならないし、それを本ものにするためにも、自分の生き方や生活のあり方の、何をどう変えられるのかを自分自身に問うていくこと、それが子どもたちやそのまた子どもたちの世代への私の償いの一歩である。

M子のメールは「離れ住んでも、故郷のことをいっぱい、いっぱい子どもに教え伝えます」と締めくくられていた。