『教育』を読む会 11月例会

日時 2020年11月28日(土)
10:00~12:00
会場 みやぎ教育文化研究センター
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参加費 無料
テキスト 『教育』2020年11月号
内容

特集1 コロナ禍と教育 ー その危機と希望

コロナ禍は、いつまで続くのだろうか。目まぐるしい状況の変化とその対処・対応のなかで、次第に疲労が蓄積し、先の見えない状況や不安が気持ちを塞ぐ。元に戻ることはないのかもしれない、そんな思いがふとよぎる。
コロナ禍と同様、非日常を生きなければいけない状況を10年ほど前に経験した。その中で、私たちは今を健気に生きる子どもたちの姿におどろき励まされ、被災地という「いま・ここ」から、教育とは何か、子どもたちにとって何が大切なのかを問いなおし、創造的な実践も少なからず生まれたはずだった。しかし、それは日本の教育・子育てを問いなおす大きなうねりにはならなかった。結局、震災前の学力テスト体制と競争主義の教育へと復帰したに過ぎない。
だから、今回はもう元に戻ることは考えない方がいいのかもしれない。では今私たちに何が問われ、何から考え始めたらいいのだろう。特集1は、そんなコロナ禍で見えてきた教育の危機と希望を考える。

前回の
様子

10月の読む会参加者は9名。特集1「不自由を乗り越える教育の可能性」については、特集全体の問題意識や総論的なことを論じたものよりも具体的な事象について論じたものを通してテーマである「不自由」について考えたいとの声もあり、志田陽子さんの「文化芸術と教育と公共市民文化」を読み合った。
志田さんは、冒頭で「価値観の多様化を認めあう社会においては、誰かが誰かを不快にさせることを避けることはできない」し、またそのような国家・社会においては「日常生活のあらゆる事柄が政治的争点となりうる」という。そして、しばらく前から「誰かを不快にさせるもの」や「政治的争点になりうるもの」を公的空間から排除する動きが強まってきている。例えば、昨年の「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」の展示一時中止や文化庁の補助金交付をめぐる出来事、あるいは「しんゆり映画祭」での「主戦場」上映の一時上映中止など。しかし、それらは事象の一部に過ぎない。同様の動きは、しばらく前から様々な形で市民の文化芸術活動のなかにじわじわと浸透し現れてきている。また教育においては、ずっと以前から学習指導要領のもとで教科書の記述や内容、あるいは教材や指導のあり方が問題にされてきた。
話し合いでは、「誰かを不快にさせてしまった」事例の一つとして、運動会の飾りの万国旗があげられた。海外の国籍を持つ児童・生徒や保護者から、どうして私の国の旗がないのかと疑問を出されたり抗議されたりしたことがあったという。また政治的・社会的なテーマに関わっては、教育委員会や市町村など公的機関に文化・芸術に関わる企画・行事の名義後援を依頼した際、企画テーマや内容が時事的・政治的なものであったり平和や憲法に関わるものであったりすることを理由に断られたことがあるという。またそれに関連して、公民館や市民センターなどの運営において専門職である社会教育主事の役割が本来大切なのだが、近年社会教育主事がいないところが多くなっていたりするという。教育に関しては、例えば社会科で多面的・多角的に教えることが求められる一方で、閣議決定された事柄についてはそれにしたがってというような制約がかかることから、例えば北方領土などの領土問題を多面的・多角的に扱えないなど、参加者それぞれが日常生活の中で体験し感じてきた様々な事例が上げられ意見交流がされた。

また特集2「等身大のデジタルネイティブ世代」では、4本の報告がなされているが、うち3本(山本さん、井出さん、池田さん)は、今の未就学児から大学生などの若者世代にかけてインターネットやスマホなどの利用状況や、そこから見えてくる現状や課題、それへの対応としての規制条例の動きなどが論じられていて、現状と問題についての見通しをよくしてくれている。一方で古賀松香さんの「〝遠隔での保育〟という難問」は、このコロナ禍のなかでデジタル機器も活用しながら、子どもたちや親たちとどのような保育に取り組んできたのか、大事にしてきたのか。そしてそこから見えてく遠隔による保育の困難と限界が、保育・教育とは何かという問いとともになされている。
話し合いでは、今回のコロナに関わって研究センターが行ったアンケートのなかにICT教育ができること・できないことは何かを教育学的に明らかにすることが課題ではないかという声があった。古賀論文は具体性、相互性、直接性という概念を中心に具体的な保育実践をもとに論じているという指摘や、それに関わって小4、小3の児童を持つ保護者からは、学校の一斉休校と共働きという状況を考え、民間のオンライン学習支援システムを申し込んだが、小1の子はまったくできなかった。ここでいう相互性、具体性の重要性をすごく実感したという発言が寄せられた。ICT教育機器の普及やそれに伴う教育実践については、このコロナ禍の中でその取り組みは始まっているようだが、公立諸学校の普及や導入状況は、まだまだ一部に過ぎないようだ。今のような状況の中でICT教育機器を使うことは一概に否定されることではないが、教育の本質をきちんと考えたうえでの取り組みや検証が必要だろう。
一方、不思議な光景として参加者から(疑問として)語られたのが、ある大学でのオンライン授業の様子。大学のなかの指定された幾つかの教室にオンラインにもかかわらず学生たちが集まってきて、個々に自分のパソコンをひらきイヤホンをして静かに授業を受けているという。教室に集まる必然性はない(自分の家で受けてもよい)のに、多くの学生が集まって授業を受けるのはどうしてなのだろうという。これについて他の大学関係者からはWi-Fiの環境がない学生や、大学で一部直接対面での授業を受けざるを得ない学生が、空いている時間にオンラインでの授業を受けるために用意しているのではないか。また4月以来、学生はなかば孤独で孤立的な状況の中で学生生活を送っている。家で一人過ごすのもいい加減いやだろうし、仲間とのつながりを直接感じたいのではないか、などの発言があった。