『教育』を読む会 10月例会

日時 2020年10月17日(土)
10:00~12:00
会場 みやぎ教育文化研究センター
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参加費 無料
テキスト 『教育』2020年10月号
内容

特集1 不自由を乗り越える教育の可能性
特集2 等身大のデジタルネイティブ世代

私たちの生きる民主主義社会は、異なるさまざまな意見や価値観があること、その多様性と異質性こそを原動力とし、その異なる人々による議論や討論を通じてよりよい社会を形成し、また発展することを構想している。
しかし近年、政治的・社会的論争を生じるテーマにかかわる様々な企画が、公的空間から排除される出来事が生じている。それは、たんに文化芸術の領域に限ることではない。教育もまたしかりではないか。特集1は、そのような観点から今日の自由・不自由の現状と課題について考えるとともに、それらを乗り越える教育の取り組みについてみていく。
特集2では、いまや幼児期からスマホやiPadなどに囲まれた環境が当然になりつつある、その「デジタルネイティブ」世代の子どもたちの実態に迫り、その現状と今後の課題や可能性を探ります。

前回の
様子

9月12日(土)、みやぎ教育文化研究センターで『教育』を読む会を行いました。参加者は9名でした。
今回は、特集1「子どもの学びを拓く教育課程と教材文化」について、本田伊克論文「豊かな『教材文化』を子どもたちとともに」を輪読し、話し合いをしました。
「教育内容との関りで発達を捉える」(11頁)という指摘については、保育者養成課程でも発達を単に子どもの「限界」を示すものとして捉えてしまうこと、体育科で内容の系列を意識しつつ、その内容を身につけさせるための教材や活動が子ども自身にとっていかなる意味をもつのかを吟味する必要があるという話が出ました。

また、単に「教材」を創出するのではなく、「教材文化」を今日的な状況のなかで切り開いていくことが必要だとされている点(同上)については、現在は教師が教材を通して何を教えたいのかという願いをもてず、教師の専門性として教材を吟味したり作ったりすることが果たして重視されている状況なのかという、現在の教師たちをめぐる状況についても話し合いがなされました。ほんらい、教科書「を」ではなく、教科書「で」教える考え方を誰もが取らざるをえない社会科でも教科書をとにかく型通りに教えることしか考えない教師も多くなっているのではないか。道徳については検定教科書が使用されるようになってから、教える側も学ぶ子どもたちも「正解」までのプロセスが定まっているように感じる傾向が強まっているのではないかという声もありました。

しかし、目の前の子どもの事実、子どものわかり方、わからなさから、教科書のつくりを見直し、自分なりの工夫をしながら日々の教育実践に取り組んでいる教師も少なくありません。石井崇史さんの実践や吉田薫さんの実践は、それぞれすぐれた授業の「事実」と取り組みを示すものです。それは少なくない教師たちが日々考えていること、感じていること、試みていることと響き合うものを含んでいると思うのです。

中村清二さんの論考「城丸教育学との再会」や佐貫浩さんの論考「子どもの学びの本質に立ち帰る」とも重ねながら、「学習」と「学習行動」との違いを改めてどう考えるべきかという意見もありました。学級づくりと授業、生活指導と教科指導の関係が、ともすれば区分けされて把握されてしまうため、教育実践記録(レポート)においても、授業における文化の学習の過程で子どもたちに生じる行動の変化をとらえきれない問題があるのではないかということです。
この点は、理論的には、本田論文が依拠している竹内常一氏や中内敏夫氏のいずれもが、両者を理論的に区分して論を立てていることによる限界をいかに乗り越えるかというところにも関わってきます。中村さんは、そこを踏まえて城丸章夫氏の学力論を教育課程の構想と結びつけて展開しようとしているわけですが、こうした点はさらに詰めていくべきところであると考えます。

「子どもたちが教材を媒介にした学習をとおして、教師が目標として想定しなかった知識や、考え方や、価値を学びとる過程も大切だ」という一文は、筆者として外せない一文だったが、この点を授業の事実を通して具体的にどのように見出していくか、教師の意図通りにいかないが子どものなかに大切な変化が生じていることを認め合う文化を教師の間にいかに形成していくかは、理論的にも、実践的にも、これからの課題だと受け止めた。(文責:本田伊克)