ゼミナールsirube 6月例会

日時 2018年6月18日(月)
13:30~16:30
会場 みやぎ教育文化研究センター
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参加費 無料
テキスト 太田直道 著『人間教育の哲学史』
内容

フレーベルの教育思想引き続き扱います。フレーベルというと幼年期の教育をすぐに連想しますが、学校とは何かとか、表現教育などについても述べています。今回は、それらについてテキストや資料をもとに読み進めます。ぜひご参加下さい。

前回の
様子

5月の会では、前回扱うことができずに残っていた「幼児期の教育」に関わる資料と、テキストの「少年期の教育」について読み進めました。
幼児期の教育に関わっては、フレーベルが幼児期の食事について「いまの年代や生活にとって重要なだけではない。子どもの未来の全生活にとってもまたきわめて重要である。」と指摘し、大人のような味付けのものを食べさせてはいけないという食事論を展開していることが印象的でした。
また、図形を言葉と物との中間にあるものと捉え、人間の成長と発達にとって極めて重要だとし、真の図形とは「物の形や輪郭を表現しようとする点において、物と共通している。またそれはなんといっても物そのものではなく、物の模写に過ぎないという点において言葉と共通している。言葉と図形はまたまったく対立した性質をもっている。というのは、図形は死んだものであるが、言葉は生きているものだからである。図形は目に見えるものであるが、言葉は耳に聞こえるものだからである。言葉と図形はそれゆえ、光と影、昼と夜、精神と身体のように分離できない統一をなしている。それゆえ、図形を描く能力は、言語の能力と同様に、直接に人間に、ないし幼児に、内在しているのであって、言語の能力と同様に無条件にその発達と形成を要求するのである。」という。このようなフレーベルの図形の位置づけに算数・数学教育などで言われるところの半具体物を連想したが、それに通じるものと言えるのだろうか。また言葉との関係でいうと二項対立的にとらえ、しかも図形を死や影、夜、身体という位置としてみた場合、そこに善悪というようなある種の言葉と図形に対する価値判断がそこに働いてあるのだろうかとも感じた。

一方、幼児期の共同感情から自律的な心情の形成へと向かう少年期は、また「生命の段階」から「学びの段階」であるとし、そこでは教授が教育の主な内容になるという。その際、少年の精神活動の源泉となるものは知性ではなく、意志であるとする(ドイツ哲学における意思の哲学の系譜をみることもできよう)。幼児期における遊びをフレーベルは、無力さと意志と夢中の「三位一体のもの」が行動として表れたものとしたが、少年期はそのうちの意志がより積極的に位置づけられたとみることができるだろうか。同時に、意志にもとづく精神活動は「生命を自己のなかに担うもの、生命を発展させるもの、生命を育み、自己自身のなかでたえず若返るもの、生命を向上させるもの、生命を高貴にさせるものでなくてはならない」と言及し、意志を生命概念と一体のものとして把握している。彼の教育思想が生命原理からなされていることをみてとることができるだろう。また、この生命原理に関わって「粘土や砂を使う仕事を生命の基本要素だと言ってよい」とし、粘土遊びや砂遊びに触れて「少年時代の人間の心と精神と欲求に基づいて、すべてのものを統一し、すべてのものを獲得しようとする少年の心や精神に基づいて行われるのである。」と述べている。幼稚園で仕事をしていたとき、年長の子どもが砂場遊びで創り出す造形の面白さと複雑さに目を見張ったことがあった。他に「少年期の教育」では、遊び場づくりへの共同社会の参与や、大人や教師の不品行な振る舞いが子どもたちをダメにしていることなどの言及もされており、今の日本の政治や日大アメフト部の一連の状況を見るにつけ、これでは道徳教育もあったものではないなあと思うところでもありました。