2010年09月18日

来年度からの小学校使用教科書が決まった。宮城県は8採択区に分かれているが、国語・社会・算数は全区で「東京書籍」。その他の教科でも東京書籍が目立つ。どうしてこのような結果になるのかはわからないが、東京書籍はそれだけ各教科書ともに他を圧する内容ゆえとしか考えられないが、それにしてもやや奇異の感はぬぐえない。

かつて、生活科が教科として誕生した時、私もG社の教科書編集に参加し、呼び出しを受けて文部省(当時)に出向き、教科書調査官から検定結果を聞かされたことがある。調査官は冒頭「申請12社のうち、11社はほとんど同じで、1社だけ甚だしく違う。その1社があなたたちのだ」と言い、修正個所の指摘は、1・2年用あわせて100か所を超え、「よって不合格。もし修正する気があれば、指摘箇所を75日以内に修正して提出するように」とのことだった。そのうえ、「小学校の先生は、1ページに1か所以上教えるヒントがないと教えられませんよ。あなたたちのにはそれがない」と小学校教師の私を前にシンセツな助言までもらった。

その後、指摘箇所について、私たちの趣意を曲げない努力で修正し、やっと検定を通過したが、思うような採択が得られず、今は教科書界から撤退して姿はない。しかし、この教科書づくりの体験が私に残した知の財産はそれまでになく大きかった。

教師の教科書選択も一人ひとりが本気で取り組むことができれば教師の力量を飛躍的に高めると思うのだが、なぜかそうなっていないことがいまだに気になる。

2010年09月13日

樋口さんの講演「憲法という人類の知慧」が終わった翌日、Kさんからメールが入った。「聞いて良かったです。このごろいろいろあって、あまり調子がよくない状態でした。」とのこと。その不調の因としての学校内外のことが連ねてあった。

校内では管理者による「こまいチェック」は数知れない、という。夏の教育課程伝講会では「すべての教科で道徳を教えること、そのための全体計画を作れ」と言われ体の力が抜けたが、これに限らず「○○計画」を作れという指示が増えてきている、と。

メールを読みながら、子どもと真向かって必死のKさんの姿と合わせて人影が見えず音も聴こえない学校が浮かんできて、私まで落ち込んでしまった。

これに似た話は多くの仲間からよく耳にする。返すことばがなく困っていつもオロオロするのだが。どこもかしこも縦の関係だけが強化され、「指示」を堅持することが仕事になる学校像の想像はた易い。教育創造の発揮できない学校での仕事に誰が誇りをもてるだろうか。教師が誇りを持てず憂鬱だけを感じる学校が子どもにとって楽しい学校になるはずはないと思うのは思いすごしになるだろうか・・。子どもはそんなにヤワではないとも思っているのだが。

2010年09月09日

教育学者の田中孝彦さんが著書「子ども理解」の中で「教師の教育実践の質を最終的に左右するもの、それは、結局は、子どもと向き合ったときに瞬時に発動する、直感的な子ども理解のセンス、子どもが求めている教育実践を直感的に構想するセンスの豊かさ・確かさではないだろうか」と書いていた。

私もほぼ同様のことを大事に子どもたちと向き合い努力をしてきたつもりだったが、今になっても心の奥底に澱のように沈み、繰り返し胸を突き刺してくる数えきれない教室の出来事をもつ。田中さんの言う「センス」はどうやって磨けるか。私のような凡庸な教師は、自分の努力だけではセンスは磨けない。職人のように優れた教師から技を盗むに懸命になることや、同僚などからうるさいと思われるほど聞くということしかないように思う。

私の一例をあげると、30代の半ば、ある日の朝会で折れた太鼓のバチを手に、1500人の子どもたちの耳と目をバチ一点に集中させる話をしたHさんに非常に驚かされたことがあった。翌年の担任希望は「Hさんと同学年にしてほしい」とねばり、願いはかなった。それもHさんと隣りあう教室に。その年の私はこれまでにない無形の収穫を得た。

2010年09月01日

仙台市東部にあるA保育所を写真を撮らせてもらうためTさんと訪問。音楽サークルHさんの時間は既に始まっていた。玄関を入ると、ピアノの音が聞こえる。ホールは年少組の子たちであふれピアノに合わせて休みなく動いている。20分程度で年長組との交代。2階階段に年長組が現れると、いつの間にか年少の姿は消えていた。Hさんのピアノは切れ目なく年長へと移っていく。

たいへんな運動量だが子どもたちに疲れは見えない。でも、昼食後の午睡の時間の子どもたちの姿がしぜんに浮かぶ。

男の保育士のYさんにちょっとの間を盗んで話しかける。まだ経験半年だというが子どもたちと一つになってうごく様子は見ていて気持ちがいい。「浪人をするとき、親に卒業後何をするかをはっきり決めろと言われ、子どもが好きだから子どもを相手にする仕事を目標にした」と言っていた。「この仕事をやれてよかった」と充足感が体に満ちていた。こんな伸び伸びした新卒教師に出会えるのはなかなか難しい。子どもたちと一体となり汗まみれになっているYさんがどうして日本の学校に見つけにくくなったのだろう・・・。

2010年08月27日

12日の日記に「山びこ学校から何を学ぶか」を取り上げたが、一部私の誤記があった。「多くの書き手のうち、教育学者は3人だけ、現場はひとりも見当たらない」と書いたのだったが、教育学者では宗像誠也さんも書いており、現場では、滑川道夫さんは当時成蹊学園の主事であり該当するし、有名な付属小の方も書いているから、現場の書き手ゼロはまちがいになる。あわせて訂正させていただく。ついでに、山形県教育研究所員・教育委員会管理主事、そして山元中学の校長も書いておるということを、現在ではほとんど考えられないことなので付しておく。

校長の文のなかに、「『参観者が多くて迷惑なことですね』と同情してくれるが、私たちはその反対で、『山びこ学校が読まれて、それに興味と関心をもたれ、この山村までお訪ねくださる方は、きっと子供を愛し、教育を愛し、日本を愛される方なんです。私たちは、そういう方と話し合い出来る機会を心から望んでいるのです。・・・』」とあった。読んで私も、迷惑な人のひとりになり、本間校長にぜひお会いしてみたかったと思った。

「ぶらりひょうたん」の高田保は「私は無性に泣かされてしまった」、劇作家の三好十郎は「私は何度も泣いた」と書いていた。鶴見俊輔は「日本から望むことのできる最も善いものが、『山芋』と『山びこ学校』において確固とした姿をとっている。僕たち、日本の反植民地化をのぞんでいるものは、ほんとうに見事なものが何であるかを忘れないために、こうした作品をふりかえることをしないと、僕たちのすることが、ますます、ほんものから遠ざかることになる。」と結んでいた。

2010年08月23日

21日の「アイヌの文化に学ぶ」講座は、私にいろいろなことを思い出させた。

参加者の感想のなかにこのごろあまり見られなかった言葉がいくつもあった。「すがすがしい時間」「自分を無心に・・」「久しぶりに集中」「成就感ということばを使っていい」・・・などなど。これらの言葉にかつての自分の教室を思い出させてもらえたが、言葉の一つひとつに見合う教室は容易に浮かんでこなかった。

小川さんの講話を聴きながら、堀田善衛を思い出した。就職して数年後、福島で全国教育研究集会があり、開会の記念講演は作家の堀田善衛だった。堀田は、講演の冒頭で、孫の噛んでいたチョコの「ディスカバリー」という品名を取り上げ、「歴史上、1492年、コロンブスのアメリカ大陸発見と言うが、アメリカには既に先住民はいたじゃないか。何がディスカバリーか。あの言い方はヨーロッパ中心主義の史観に基づく言い方だ」と言い、聞いた私は飛び上るほど驚いた。大学まで歴史を学んでいながらまったく考えたことがなかったのだ。私に、「学ぶ」ということ「教える」ということの問い直しを迫るに十分すぎる話だったのだ。

2010年08月16日

「人間と教育」(民主教育研究所刊・10年夏号)に「オランダの教育と日本の教育」(リヒテルズ直子著)が載っており、日本の教育を考えるべきオランダの教育のさまざまな事実が紹介されていたが、その中に引かれているユニセフ調査(2007年)結果の日本の子どもについての数字に、猛暑の中、いっとき体が寒々とするのだった。

その驚くべき結果の一つが、「孤独を感じる」という日本の子どもの比率の29.8%である。他の国は5~10%であり、オランダは2.9%。

日本の子どものおおよそ3人に1人が「孤独を感じている」ことになる。子どもにそんな思いをさせて平気でおれるわけはない。そうさせているのは私たち大人なのだから。

      ふるさと    大木 実
桑畑の向うにとなりの家がある/日のくれ 煙があがり燈火がつく
縁の雨戸を繰りながら/「おうい」と大きな声で呼ぶ/しばらくして「おうい」と返事がある/「あしたまた遊ぼうや」/「遊ぼうや」/その家に 宋ちゃんという友だちがいた ――
山はくれ/鳥屋のとりたちもねてしまった/そしてせせらぎの聞えるあたり/今夜も星が美しい

私の子ども時代はこの詩そのものだった。そう言っても、「昔と違う」と一蹴されるだろうが、どんな世であっても、「おうい」「おうい」と交わし合える子ども時代にしてあげたいと切に願う。

2010年08月12日

アイヌ文化講座の参加希望者数が満たされないことが気になるのだが、昨日からセンターを閉めることにした。そこで、しばらくぶりに古本屋にリュックを背に足を運んだ。

今日は、買いこんできた中の一冊「山びこ学校から何を学ぶか」(須藤克三編・1951年)を読んでいるが、編者・須藤の「あとがき」の一部を少し長いが抜いてみる。

「教育者に案外『山びこ』のケチつけが多く、一般の人々が、素直に感動し、率直な評価をしている事実を見聞しました。たまたま教育者以外の人が『山びこ』をほめたり、支持したりすると、教育者は『素人が的はずれなことを言っている』といった態度を露骨に見せているようでもあります。」「大衆の支持を受ける教育が、教育者によってケナされ、黙殺されるという事実は、どう考えてみても首肯できないことの一つですが、『山びこ』に対する大衆の関心と支持というものは、同時に、『山びこ』をケナす教育に対し、いかに不満をもち拒否しているものだと言えないこともないようです。教育というもの、少なくとも義務教育というものは、つねに大衆とともに在らねば意味をなさないでしょう。」

この本の執筆者は多いが、私の知っている教育学者は、大田堯・宮原誠一・船山謙次の3人だけ。現場の書き手は見当たらない。大田さんは、結びで「たまたま無着君の作品と人にふれ、われわれ自身の不勉強を痛感するので、その反省のために筆をとった」と書いている。

2010年08月06日

明日から東北民間教育研究団体の集会が秋田会場で始まる。会場は6県持ち回り、今年は59回集会だ。私の参加した秋田の最初は第17回の大滝温泉での集会。前年の浅虫につづいて仲間と宿泊費を惜しんでテントをもっての参加。翌年の福島岳温泉もテントだったが、設営が終わるころから豪雨になりテント内に浸水、我慢できなくなって宮城の宿舎に避難したのだった。そんなことをしても多くの仲間の中の一人であることに誇りを感じて3日間を暮らした。全国に名をはせている研究者や実践家に出会うだけで動悸が激しくなる。何も知らない私には話の全てが新鮮。吸い取り紙のようになんでも自分のものにしないでおれない。ただただ聞くだけ。こんな繰り返しの中で、しだいに私の「学び」が身についてきたように思う。自分の仕事をもっての参加はしばらく後になる。

2010年08月01日

林光さんからハガキをいただく。公開授業の報告ブックレットをつくらせていただきたいとの願いにご快諾を得る。「事実誤認があるかもしれないから作成見通しがたったときに見せてほしい」と書かれてある。

これで、林光さんによる高校生相手の公開授業「ひとりひとりの憲法」を会員外の方にも広く知っていただけることになることをうれしく思う。

とは言え手放しで喜んでおれない。あの林さんのすばらしい憲法の授業をどのような形でブックレットにまとめあげるかが大きい課題になるからだ。とびきりいい材料だから必ずよいものに仕上がるとは限らない。猛暑の夏に加えて、急に燃えだした己の体熱とがグルになって襲いかかってくる感じだ。

多くの方の知恵と力をお借りしながら、完成した時の爽快感を夢にさっそく仕事に取りかかりたい。

2010年07月26日

戦後教育実践書を読む会のためのリストつくりを始めた。大げさな言い方に聞こえるが簡単な年表づくり。その作業をしていて大いに驚いたのは、手元の何冊もの戦後教育史を読んでもかつて私を揺さぶった実践書についての記述はほとんど見られないということ。つまり、私の頭にあるいくつもの実践書は教育史の中にはきちんと位置づけられてはいないのだ。熱に浮かされたように身銭を切って遠くの学校まで走り回った頃のことはまだ鮮やかに残っているのに。教育史のなかでどうしてそんなものなのか、読む会がスタートしたらゆっくり考えてみたいと思う。

ホームページを開いて4週間になるが、こちらからの一方的な押し売りであることと、会員は教育関係者だけではないのに、内容が教育実践の域を広げられないでいることが少なからず気になっている。

ホームページをのぞいて言いたいことなどおありだろうにそれを書ける欄をつくっていない。「お問い合わせ」のメールを使ってどんどんお書き頂ければありがたい。

2010年07月21日

2・3年前から事務局会議で話し合われていた「アイヌ文化に学ぶ」会が、催し案内のような内容でやっと実現できることを喜んでいる。アイヌ文化振興・研究推進機構が2人の講師派遣を快諾してくださり、宮城県教育会館と共催で可能になった。非力なわが研究センターだけではどんなにがんばってもこの種の学びの会をつくることは無理なのだ。

先日会ったMさんは、「以前、小川早苗さん(今回の講師のおひとり)のアイヌ紋様展を観に東京に行ってきたことがある。一つひとつの紋様のすばらしさに心を打たれた。今度の会には友だちを誘って参加する」と話していた。

何でも同じだろうが、その実際に触れるまでは迷いや心の距離があっても、いったんその場に自分を立たせてしまえば満足感で充たされることが多いだろう。Mさんからは仲間5人との参加申し込みがあった。

せっかくの機会なのにA・Bコースともに定員30名の学びの会にせざるを得ないことに少々心が痛む。

2010年07月17日

本年度の活動方針のなかに新しく「戦後の教育実践書を読み合う会」をつくることを入れた。これをどう具体化するかを事務局会で話し合った。現場の方たちと読んで話し合いたいゆえに、いつ、どうすればそれが成立できるか容易に名案は出てこない。月例で土曜しかないとまとまりつつあるが、月1というとき、まとまった実践書をどう読み合えるかもまた工夫がいる。できれば夏休み後の少しでも早い時期にスタートしたいのだが・・・。

雑誌「教育」の1956年8・9月号に大田堯さんの「戦後の教育実践を検討する」が掲載されている。そのなかで大田さんは小西健二郎の「学級革命」にふれ、「ここを場として、子どもの埋もれた学習意欲がほりおこされ、無感動にとじられていた魂に感動の波をよびおこさせていくのだ」と書いている。半世紀後の今も学級担任の闘いは少しも変わるはずはない。とすれば、この会を開く値打ちは十分あると秘かに思っている。もちろん、その他の実践書についても同じことが言える。

2010年07月13日

研究センターに去年強力な助っ人集団が誕生した。今日はその10回目の集まり。メンバーは6人。ほとんどは退職1年の会員。現場の若い人たちにこれまでの宮城の優れた財産を広く届けることを願う人たち。

その話し合いが基になってこのホームページは開設へとすすんだのだ。

今日の話し合いは、教育実践の部屋と資料室をどう充実させていくかが中心に。

学習指導要領に忠実につくられた教科書べったりの今の教育内容は教師にとっても子どもにとっても幸せなこととはいいにくい。これが徹底されればされるほど、教師自身が別の世界の存在に目を向けずに進み、子どももまた開かれた世界に気づかずに過ごすことになるだろう。こんなことを想像すると目の前が暗くなる。学校は囲い込みに必死になるのだが、成功していると思われる学校にはそれがつくる大きな落とし穴が「教育の仕事」にはあるのだといつも思いつづけたいものだ。そんなことを考えてもらえる実践をも多くの教師に届けたいと願う助っ人たちなのである。

2010年07月09日

「通信読みました。林さんの公開授業でのお話、すばらしかったですね。よい企画でした。高校生の感想もなかなかよかったです・・・・」

通信59号の感想を第一番に電話で話してくださったのは、教育学者の堀尾輝久さん。わが研究センター会員のおひとり。届いてすぐお読みいただき、すぐ電話をくださったのだろう。

ご感想を伺いながら、林さんの卓抜なお力によってつくりあげられた公開授業であり、その事実を報告しただけと自認しながらも、つい自分たちがほめられているような錯覚に陥り、堀尾さんのひと言ひと言に体が宙に浮いていく感じがしてくる。(この年をして・・)と自分を抑えようとするが電話の後までしばらく浮きっぱなし。そんなバカ丸出しの自分をこの欄に書いて更に人目にさらそうというのだから、どうしようもない大バカか・・。

2010年07月05日

通信59号発送作業。通信発送のたびに清岡さんが悩むのは会費納入依頼書を入れるかどうか。人さまざまと考えると、「知らされた方がいい」と簡単には紙をはさめないのだ。オレはズルイのでいつも答えにならないことを言って逃げている。

59号は「林光さんの公開授業」の報告。授業中のピアノの音はどうしても伝え得ない。その場にいていただくこと以外にないことを通信をつくりながら考えると、高校生50名参加はなんともうれしい。もちろん、150名の参観者も。

この会のテーマは「憲法って 何なんだろう」。林さんが「憲法」という言葉を使ったのは授業の最後。それでも、高校生Sさんの感想に「憲法の話って何をするんだろうと思っていましたが、憲法って、つまり、その人の考え、信念、個性なんですね。私も光さんのように、しっかりとした自分だけの憲法をもちたい」とある。

憲法だけでなく、教える・学ぶということはどうあればいいのか、少なくとも「教科書をなぞることではないですよ」と林さんは私たちに示してくれたような気がする。

2010年07月02日

ホームページ公開 昨日から。清岡さんとおそるおそる開いてみる。あった! これまで内輪で見ていた時と少しも変わりないのに年甲斐もなく少々興奮。

会員で、親の介護のために仙台を離れたSさんから歌集をいただく。環境問題に取り組んでいたSさんらしく身の周りの動植物が多く登場する。直線的な小気味よい表現。歌に引っ張られて読み進めていると、とつぜん「教師」が素材に。元教師のオレは鋭い太刀先にしばしストップ。

・愚かしき教師のごとき剪定をくりかえしおるきさらぎの庭
・内心の自由はあるゆえ職務として歌うべしとぞあわれ教師はまだあるあるのだ。

広辞苑は「剪定」を「果樹・茶・庭木などの生育や果実を均一にし、樹形を整えるため、枝の一部を切り取ること」と書く。「樹形を整える」「枝の一部を切り取る」、学校の日常をいろいろ想い描くうちに身が縮んでくる。

2010年06月26日

第17回総会、1時過ぎから1時間程度。2009年度は24名もの新規会員。そのためか準備にも力が入る。総会参加者も去年よりは多くうれしい出発。「開設するホームページによって、よい仕事をしている仲間、したいと願っている若い人たちをつなぎ励ますものにという期待。よい仕事をしている仲間・学校を知りたいという希望」等が出された。

学校教育の内容がぎすぎすしていることは子どもの世界もそうなっていること。これで心豊かな子どもたちにできるか。こんな現状を切り拓くためにもセンターへの期待・希望にどう応えるか。体に力が入る。幸い若い人たちの役に立ちたいと集まりつづけている“OB”数人の助っ人の存在は心強い。そこからの発信が何かを動かすだろう。

記念講演は田中孝彦さん(武庫川女子大学)。演題は「『子ども理解』-そして教育実践・教師像の今日的課題」。現在の教育の問題を指摘したうえでの子どもや教師の積極的・肯定的な事実の話は明日への力となる。世の中、あまりに否定的な面だけ取り上げる人が多いのではないか。それに共感するだけでは何も変わらない。一歩でも二歩でも歩くこと。歩くこと以外に光は見えてこない・・と自分に言い聞かせる。

2010年06月23日

総会の準備。夕方、清岡さんと雑談。話は林光さんの公開授業のことをふりかえりながら今後のセンターの活動にすすむ。

センターではどなたにお願いするときも薄謝。林さんも同じだったが、林さんには高校生への公開授業に興味を示していただけた。結果は、参加した高校生も参観者もみんな喜んでくれた。(林さんにとってはどうだったろう・・)。

通信掲載のためにテープを起こしたが、話の展開はすばらしく、どこも省けない。すべて載せることにした。途中、CDを2度使ったところがあったが、「もっと高く!」と係に指示する林さんの声は「怒声」とも言えるもので、音の世界に生きる方、指揮者の一面を瞬間に感じて驚いたと言うと、「僕もでした」と清岡さん。このことも伝えたいことだが通信ではどうしても無理だ。この瞬間の出来事を耳目にすることができるかどうかは人間にとって小さくないのではないか。

雑談は、「金のないわがセンターはオレたちの企画力が問われる、その力を枯渇させないようにしなくちゃ」ということで終わりになった。

2010年06月18日

朝、出がけに出浦さんから電話。一昨日の電話では今日はゆっくり家で横になっていると話していたのだが、今日も体調がすぐれないという。運営委員会を休ませてほしい、「センターの将来構想」に関する話は宮教組の斎藤さんに頼むからとのこと。4時からの運営委員会では斎藤さんに話をしてもらう。センターの仕事は、中にいる者だけでは何ほどのこともできず、多くの方の支えによって成り立っていることをこんなことに出会うたびに強く思う。会の後に話をしようと思っていた2つの別件は後送りになる。

総会を前にしての運営委員会だったのに新年度の活動方針をとうとう文字にして出せなかった。以前はやらなければならないことは寝ずにもやったのに、いつからこんな体たらくなオレに・・、情けなくなる。

通信の仕事もたくさんの方に書いてもらうことでなんとか形にできてきている。夜、初校。

2010年06月16日

通信59号の作業も追い込みに入った。原稿がまだそろわない。「ひと言」は中森さんにピンチヒッターを頼んだ。林光さんの授業テープを聴いた。要旨にまとめるためだったが、どこも、ひと言も略せない。そのまま読者に届ける責任が私にある。ピアノの音を一緒にできないのが残念だ。

帰りのバスを降りて歩いていると、突然、ワカナちゃんから「オカエリナサーイ」と声が降ってきた。私の住んでいる小路ただひとりの1年生、いやたったひとりの小学生だ。会うたびに「学校はおもしろいか」と聞く。すると、決まって声高く「おもしろい!」と返してくる。そのたびに(よかった!)と思う。

家に「みやぎ児童文化の会」通信229号が届いていた。筆者の菊池鮮さんは健在だ。鮮さんは書く。

「・・人間も変わるわけだ。体も頭も、どんどん使わなくてもいい方向に進んでいく。するとだ。人間の体にも変化がおきてくる。やらなくてもいいところは退化していく。そして、残ったところが異常に発達しないか、と俺はおそれる。それは人間のどの部分か、精神的な面である。つまり、かぎりなく人間はワガママになっていくのではなかろうか。・・」

読みながら我がワカナちゃんの顔がうかんだ。ワカナちゃんはまったく心配ないな。