2011年

2011年12月31日

2011年も今日が最後だ。最近読んだ本に「経済は虚で、環境は実だ」と書いてあったが、私たちを揺さぶった大震災をこの言葉と結びつけて考えつづけている。

こんな時だからか、今年一番私に衝撃を与えてくれた本は、ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリン」だった。

著者30代での執筆であり、ここ約30年間の世界の出来事を取材し続けて書いたものだ。チリのクーデター、アパルトヘイト後の南アフリカ、ソ連の崩壊、イラク戦争、中国の天安門事件等々とびまわる。もちろん、9・11もだ。そして、スマトラの津波、ニューオリーンズのハリケーンの地にまで入り込んでいる。2007年に書いているので、3・11は入っていないが、この本をよむことで、読み手の想像は3・11までも十分ふくらんでくる。

私は、テレビ・新聞などで個々の出来事はそのおおよそは知っているつもりでいたが、この本によって、それらの根は同じ糸でつながれていることを知った。言葉を換えれば、今まで個別にしか出来事をとらえていなかった私が、広くものを結びつけてみることのできるメガネを、このグローバリゼーション時代を生きる者として著者からもらったような気がしたのだ。そのメガネによって著者が触れていない同時代の日本の動きも、(ああ、そうだったのか。これが小泉政権だったのだ)とうなずくことができた。何が共通の糸か。まとめることは著者の意図をゆがめるかもしれないが、民営化・規制緩和・社会支出の削減などになるか。

その糸によって世界はどうなっているか。たとえば2006年、「世界の成人人口の上位2%の富裕層が、地球上の世界財産の半分以上を所有している」と国連の調査報告が書いているという。

著者はこの格差をつくったものを「惨事便乗型資本主義複合体」と述べているが、津波被災のタイで、「政府にお金を出させようとして戦っていたときは、自分たちの力で立ち直るために何かしようという気はまったくなかった」と語られたと書き、自力で復興に努める人々に共通する重要な点がある。彼らは異口同音に、自分たちはただ建物を修復しているだけでなく、自分自身を癒やしているのだと言っていたが、これこそ惨事便乗型の対極にあるものとする。これらは、越年し長丁場になる3・11の復興に関して、「あなたたちが大きく試されているのだよ」という著者の強いメッセージにも聞こえる。

2011年12月25日

寒いなか、大田堯先生にも足を運んでいただき、17日に映画「かすかな光へ」上映会が終わった。

今回の上映会は上映実行委員会をつくって取り組んだ。大田先生の長い間の幅広いお仕事に接してお世話になった方の多さを考えると、この方式が一番いいだろうと思っての提案だったがどなたにも喜んでいただき会はスムーズにつくられた。

短期間だったが、実行委員会は準備会を含めて4度もった。そのたびに東北大の学生や若い保育士さんたち、そして中小企業家同友会からの参加と、私たち研究センターだけの取り組みとはまったく違う雰囲気のかもしだされる会となった。

時間がないのでセンターでつくって使っていたチラシについて、「これでは学生は集まりません。ぼくが学生用のものを作って使います」と学生のSさんに言われたこともある。

異なる職種の人や年齢層もさまざまな人で会をつくることの大事さを強く考えさせられた上映会であった。

大田先生は、短時間でも被災地に足を入れることをご希望、仙台駅から直接仙台沿岸部に行ってこられた。会場到着は講演開始予定時間まで10分もなく、少しお休みになられることをおすすめしても、93才の先生は休もうともせず、時間の打ち合せだけでホールに足を運ばれた。

登壇した後、お立ちになったまま東日本大震災へのお見舞いを述べられ、それから用意していた椅子に座られた。

物や金の復興ではなく「生命と生命の絆」の創出であり、「どうなる」ではなく「どうする」の姿勢の大事さを強調、魯迅の「故郷」の最後の一文「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」でお話を結ばれた。

若い人の感想が多く残されたのも、これまでにないことだったように思う。

2011年12月20日

読む片っ端から忘れてしまうのだが、未だに本を読まないではおれない。家族には呆れられ総スカンである。本は邪魔物であり、それをいたるところに置きっぱなしにしている私は家ではどうしようもない困り者になっている。

「大学の下流化」(竹内洋)の中に、「1964年に購入された書籍のうち、大学生によって購入された割合は32%である。(略)ところがそれから30年後の1994年になると、大学生の書籍購入割合は8%」と書いてあった。

これを読みながら思い出したことがある。私の学生時代のこと(1954年~58年)だ。

電力ホールでの文化講演会をのぞいたことがある。作家井上靖と角川書店創設者角川源義の講演であった。

その折、角川は、「仙台に来たのは今日が2度目です。1回目は阿部次郎に『三太郎の日記』の出版をお願いに来たのでした。それまでの出版物はことごとく失敗して、最後にかけた1冊でした。それがダメなら自殺しようと思ってのことでした。阿部先生にお許しを得てそれで角川は死なずにすみ、今があります」ということを話した。その時は、出版という仕事はそうなのだと思ったことが大きく、「三太郎の日記」で生き返ったことの驚きはなかった。まだ、その頃、三太郎は学生の体からそう離れてはいなかったのだ。

角川版「三太郎の日記」が世に出たのは、調べてみると昭和25年(1950年)だ。

しかし、今考えてみると、最後の1冊を何にかけるかを考え、行き着いたのが「三太郎の日記」であり、それで生き返った角川書店が今も存在するということを考えてみると、何がよいかどうかはべつにして世の中の動きはずいぶん大きいということを思う。少なくとも、今瀕死の書店が「三太郎の日記」の類で息を吹き返すことは絶対あり得ないことは誰もが思うだろう。

だから今をどうと言うことはできないが、(オレはいい時を過ごしたなあ)と、こんなことからも何となく思う。

2011年12月14日

師走のせいにするわけではないが、日記が日記と言えないくらいにまた間が空きすぎた。

日記を書く暇がないとは言うに恥ずかしく、つまりはうまく仕事が運べないということに尽きる。

先に、戦後教育実践書を読む会の渡部やす子さんの「村の一年生」のことを書いたが、あのおり、渡部さんが話の中で触れたちょっとしたことを書きたいと思いつつ延び延びになってしまった。

というのは、土田さんの仕事を読みながら渡部さんは、なんと今は消えてしまった私たちのつくった生活科教科書の「文の意味がわかった」と言ってくれたことだ。

その教科書の部分をそっくり紹介する。

「たろうは、まいにち がっこうへ いく。/はなこも、まいにち がっこうへ いく。 /ころと みみは、がっこうへ いかない。」
(*「ころ」はたろうの家の犬、「みみ」ははなこの家の猫)。

聞いていて、この教科書つくりに参加したひとりの私はびっくりした。これまで、「この意味がわかった」と言われたことは一度もなかったからだ。

文部省(当時)に検定結果を聞きに行ったとき、調査官は、薄笑いをしながら、「あなたたちの教科書は、あまりに当たり前のことを書きすぎている」と私たちに言ったのだった。渡部さんの話を聞きながら、すぐ、このことを思い出したのだが、これはおそらく検定官だけの思いではなかろうと思っていたので、今になって(ほぼ20年後)、「わかった」と言われたことはたいへんうれしかったのだ。

渡部さんのこの話が、土田さんの実践とどう結びついたことによるのかは聞いていない。

でも、私には久しぶりにうれしい一言であり、教科書づくりの労が報いられる思いのした一瞬であった。

2011年12月06日

3日は「戦後教育実践書を読む会」の3回目。テキストは「村の一年生」(土田茂範)。案内人の渡部やす子さんのテキストの読みと土田さんに関する資料の読み込みが深く、すばらしい内容のある会になった。参加者は少数でもと始めた「読む会」だが、教育実践を考えるにこんな会はめったにないだろうことを思うとたいへん残念だ。

土田さん25歳、はじめての1年生担任の記録である。そのなかの「6月 ひとつの主張」の前半部を紹介してみる。

「さあ、きょうは、お医者さんにみてもらうんだから、出席簿のとおりにならびましょう」
こういうと、出席簿1番からずっとならぶ。
「きょうは、たいそうだから、ちいさいほうからならびましょう」
こういうと、すぐ、ちいさいほうから。こうした整列のしかたから、1年生の団体生活のどだいはきずかれるのではなかろうか。
4月、学校から帰るとき、教室から昇降口まで固定して整列させていた。それが、子どもたちから、
「あそこだけ、いつでもまえがえ。いいなえ」
といわれたので、変更してぎゃくにした。それがややしばらくつづいたら、こんどはまん中にばかりなっている子が、
「おらだ、まん中ばっかりがえ。いつまえにすんな」
といいだした。
「んだら、一日ずつ一番前になることにすんべな」
と、1日こうたいにした。これが、子どもらの整列の土台で、朝会でも何でもこのとおりにならんでいた。
「毎日、顔ぶれがかわるな」
先生がたによくいわれたが、わたしも、はじめはしらないでいた。
子どもらが、自然にきめていったひとつの秩序。これは、みんな平等にしてほしいということのあらわれのように感じられる。子どもといえども、ーー子どもだからこそ、肉体をとおして、平等を主張しているのかもしれない。(後略)

なんてすばらしい教師だろう。整列は小さい順となっていれば、たとえ1年生であろうと「決まっているのだから!」とたいていの教師は子どもに耳を貸さないだろう。ましてや「1日交替」にし、「自然に決めていったひとつの秩序」と見る教師なんて何人いるだろう。しかも、その若い教師のクラスの様子に、「毎日、顔ぶれが変るな」と眺めている教師仲間がいるなんて!

土田さんの資質によることはまちがいないだろうが、それを支える教師仲間の存在、土田さんの所属していたサークル「山形県児童文化研究会」の存在の大きさを忘れてはならないだろう。

2011年11月29日

「ショック・ドクトリン」を読み始めた。副題は「惨事便乗型資本主義の正体を暴く」、オビには「3・11以後の日本は確実に次の標的になる」とある。

著者 ナオミ・クラインは、長い序文のなかで、惨事の一つとしてニューオーリンズのハリケーンを取り上げて、

州選出の共和党下院議員リチャード・ベーカーがロビイストたちに向けて語った言葉は、「これでニューオーリンズの低所得者用公営住宅がきれいさっぱり一掃できた。われわれの力ではとうてい無理だった。これぞ神の御業だ」と。

また、ニューオーリンズ屈指の不動産開発業者ジョセフ・カニザーロも、これとよく似た意見を述べていた。「私が思うに、今なら一から着手できる白紙状態にある。このまっさらな状態は、またとないチャンスをもたらしてくれている」と。

その週から議会には、このビック・チャンスを逃すまいと企業ロビイストたちが群がり始めていた。彼らロビイストたちが州議会を通そうとしていたのが、減税、規制緩和、低賃金労働力、そして、より安全でコンパクトな都市の構想だった。要するに公営住宅の再建計画を潰してマンションを建設しようという案だ。・・・

「ショック・ドクトリン」を読みながら、私の頭の中から3・11がいっときも離れない。前述オビの言葉が単なる売らんかなの言葉だとして見過ごすわけにはいかいのだ。今宮城で論議されている「漁業特区問題」での企業参入などは、ニューオリーンズとどこが違うだろう。

著者は、別ページで、100以上あった公立学校が一桁になり、民間のチャータースクールが一挙に増えた例も書いていた。

まだ読み始めたばかりだが、ニューオリーンズのハリケーン惨事に便乗した冷血な事実が世界各地の惨事に見られることを少しでも早く少しでも多くの人に知って欲しいと思い、日記らしからぬ日記を書いてしまった。

2011年11月23日

夕方のニュースで、岩手高田の酒「雪っこ」が売り出されたことが取り上げられていた。

「雪っこ」は、必ず宮崎典男さんを思い出させる。宮崎典男さんといってももはや知る人は少なくなっているだろうが、なんとかかとかこの仕事をつづけられた元教師の私にとっては欠くことのできない“大師匠”である。

若いときから宮崎さんに連れられてあっちこっちと学びの場に足を運んだ。宮崎さんとの出会いがなかったらと自分のこれまでをたどってみると、まちがいなく情けない失格教師で終わりになっただろう。

そんな自分を物差しにするから、教師の集まりの場の様子がほとんど耳にはいりにくくなってきている今の現場のことが、おせっかいな言い方になるがたいへん気になる。

宮崎さんが存命の時、私がある雑誌に「ごんぎつね」の実践記録を3回に分けて載せたことがあった。その記録を読んだ宮崎さんから、そのたびに克明な感想と「自分ならこうする」という詳細なプランを書いて送っていただいたことがあった。今も私にとっての宝の一つとして大事にとってある。その時は、自分も卒業したら、こういう応援をしたいものだと思ったが、そう容易にできるものでないことを知ると、宮崎さんに出会えた自分を幸せ者と思う。

ところで高田の「雪っこ」のことだが、秋口から春先にかけて先生と一緒に出かけた学習会の帰りの電車に乗る前に決まって仕入れるのが「雪っこ」だったのだ。それも新幹線になってからはうまさの記憶はうすいのだが、米坂線とか東北本線とかで向かい合わせの座席で飲んだ「雪っこ」はそれぞれの学習会の内容と一緒に体にしみついている。

「雪っこ」がまた売り出されたことはたいへん喜ばしい。でも、学習会で一緒する人もなく、のんびりと車中で飲んでしゃべり合える相手のいない今は何とも寂しい。もちろん、車中でなくてもいいのだ。

2011年11月15日

教育学者・大田堯さんの生きている姿を通して、生きること・学ぶことの意味を問うドキュメンタリー映画「かすかな光へ」の仙台上映がやっと決まった。

11日に実行委員会をもち、12月17日(土)上映を決定。会場はここ教育会館フォレストホール。93歳の大田さんに仙台においでいただき、午後2回上映の間にお話をしていただくことにした。

実行委員会に参加する団体・個人はいろいろで、大田さんの生き方をそのまま語っていると言えそうだ。子どもを守る会・保育団体連絡協議会・親子劇場と子どもに関わる団体も広い。子どもに関わる人たちだけでなく、社会教育に関わる人たちの参加もある。それに、中小企業家同友会も参加。大田さんは、後年、全国にあるこの同友会組織をかけめぐってきているのだ。このことが大田さんの生きること学ぶことと深く結びつく。同友会に上映会の企画をお話しすると積極的に参加の意思をいただけた。

上映会の組織過程を通してだけでも、大田堯という教育学者の生き方がビンビンと伝わってくる感じだ。

映画は谷川俊太郎さんの詩で始まる。

~ 私たちは知りたがる動物だ/たとえ理由は何ひとつなくても/何の役に立たなくても知りたがり/どこまでも闇を手探りし問いつづけ/かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える ~

音楽は林光さん。ナレーションは山根基世さん。

2011年11月09日

5日・6日と「2011 みやぎ 教育のつどい」に参加した。退職後、時が経てば経つほど、教育研究集会参加は気が重い。何しろ、学校現場の変わりようは耳を疑うサマだから、そこで話をしても、(そんなこと今はとてもとても・・)と頭上をかすめもしないのではないかと考えると参加して話すのが怖いのだ。

さて、2日間の集会は、あっという間に終わった。1日目が午前だけだったせいもあるかもしれないが、提出されたレポートのすべてが私にとって興味を引くものであったことが大きい。

1日目は、「うたを通して震災後の自分を見つめる指導の試み」(中学校のSさん)と「被災地からやってきたK君」(小学校のYさん)の2本。

2日目は、「被災地へ届け! ぼくたちのエール」(Kさん)ほか4本、すべて小学校。

参加者が少ないことは毎年気になるが、提出レポートは、この困難な場にありながらどれも子どもの側に立っての創意に満ちたものであった。

Kさんは、3・11後のまだ落ち着かないなかでの始業式直後の授業参観日のために、自分で選んだ目標となる文字を習字で書き、文字にこめた思いを文で添えさせたことで、新しい6年生の出発し、その後、被災地へのエールの取り組みを学年から全校に広げていく。

これら学校の取り組みと並行してKさんは、組合の支部・地区会でとその他に個人でと被災地ボランティアに10回ほど行っている。

Kさん自身の被災地でのボランティア活動と学校での子どもたちとの実践が見事にむすびついたことはまちがいない。

指導主事訪問時の指導案を作ったので見て欲しいという教師1年目のMさんのレポートもあった。6ページにわたる指導案を見ながら、自分の初任時代を思い出し、そのていねいな作りに内心驚くと同時にその苦労を思いやった。こうやって教師が教師になっていくのだと思いながら、このような場にもちこんだ素直さにMさんのこれからへの期待をふくらませた。

ひとつひとつ感想を書くことはできないが、出されたレポートに私はまだまだ学校に希望はあると思わせられた。それだけに、もっともっと多くの人と一緒に希望を感じたかったという思いが強い。

2011年11月01日

28日、31日とH小・F中へお話を聞きに行ってきた。われわれのような申し込みは少なくないと思うし、どの学校も何かと忙しいに違いないのに、これまでの学校同様両校とも快く対応していただき、貴重なお話を聞かせていただいた。

お話を伺って共通して感じたことは、あの日、そしてあの日からしばらくの間、どこの学校でも、あの大震災の中で見事に創造的に動いていたということだった。言葉を換えれば、それぞれ、これ以上の動きをだれが出来得たろうかと思ったのだ。

もしかすると、学校が、教育委員会を初めとする行政の指示やマニュアルなしに独自の判断で行動したということは、ここしばらく、どの学校にもなかったことではないか。瞬時の判断を強いられる場面で連絡手段が絶たれるという最悪の場がそうさせたわけだが。

この動きが、これまでの学校のあり方を振り返り、3・11後の教育を考えるうえでの大きな教訓になるだろうことを忘れてはならないとも思った。

しかも、お話を聞きながら、これも一様に「教師集団」が浮かんできた。ことばが過ぎるかもしれないが、通常、学校のいろいろな話を聞いても、なかなか「教師集団」を感じることはない。ゆえに、聞いている自分までが誇らしくなってくるのだった。

余談になるが、F中の仮設校舎で話を聞きながら、私の遠い中学生時代が思いだされた。私の中学1年生は戦後3年目の1948年だった。小学校の空き部屋を借り、不足の教室は応急のバラックだった。教室には黒板以外何一つなかったが、先生たちは生き生きと動いていた。私たちも生きていた。教科書すらちゃんとしていなかったのに。

3・11についてのそれぞれの学校のお話を聞くことにより、学校とは何か、そこで営まれる教育とは何かをこれまでになく考えさせられている。まだまだお願いしている学校があるので、私の考えはますます広められ深い問いかけを迫られそうだ。

2011年10月25日

古本屋で求めた「昭和青春読書私史」を読んだ。著者は安田武。日本戦没学生記念会(わだつみ会)の再建に尽力し常任理事を務めた。「思想の科学」会長でもあった。

前記「私史」は、中学1年のとき読んだ「モンテ・クリスト伯」に本の世界に引きずり込まれていった本との出会いの青春の記。

本の紹介は別の機会にゆずるとして、数十年前に読み、今もそのときのまま体に残る安田武の新聞のエッセーのことを述べる。

正確なタイトルは覚えていないが、おばあちゃんに教えられたことを3つ紹介していた。1つは、夜の客が帰るとき、外の靴音が聞こえている間は外灯を消してはならない。2つめは、電話を受けた場合、相手の人が受話器を置く前に自分が置いてはいけない(もちろん黒電話時代)。3つめは、ある日、おじいちゃんと一緒の汽車(3等車まであった頃)に乗ることになったとき、「おじいちゃんは1等車に乗るが、あなたはおじいちゃんと違うのだから3等車に乗ること。おそらくおじいちゃんは『こっちに来るように』と言ってくるだろうが決して行ってはいけません」と言われた。案の定、おじいちゃんは秘書を呼びに来させたががんばって行かなかったら、おじいちゃんの方が3等車に来て、一緒に目的地まで行った。

この3つの話である。私はなぜ今も覚えているか、理由がある。新聞で読んで以降、毎年のように年度初めの学級懇談で紹介したからだ。

でも、いつの頃からか記憶は定かでないが、年々、話が、親の頭の上をかすめて消えていくように感じてきはじめて、いつの間にか、定番の話をはずしてしまい、その後はまったく話すことはなくなった。

私の中では、安田の書いたどの文も、このおばあちゃんの思い出の話を語るエッセーを超えるものはない。今度の「私史」もおもしろかったが、やはり超えることはなかった。

2011年10月18日

先日の天野祐吉さんのお話を聴いた後、「隠居大学」(天野祐吉編)を読んでいる。私だって歳に不足はない。年齢以外の入学資格はあるのかどうかが読み始めから気にしていること。

自称学長・天野さんの対談の相手をするのは、横尾忠則・外山滋比古・赤瀬川原平さんたち6人。読み進むにしたがって、この大学は、とんでもない難関大学であり、歳を重ねたぐらいではとうてい入学は許されないことがわかってくる。

しかも、入学の可否を決めるのはひとえに、その人間の生き方。

私の得た結論は、入学を考える前に、横尾さんたち現「隠居大学」生たちの生き方を学び、己の生き方を創り出すことであり、それも志半ばでまずは終わりになるだろうが、自分自身のためには入学を目指して生きてみたことに大いに意味ありというところであろう。

「第1の人生は学校やら会社やらに仲間がたくさんいますから、みんなでやればこわくないというふうに、あまり考えなくても、無責任でもなんとかなるところがありますね。第2の人生になると、それまでの仲間とは生き方もバラけてきますし、なにより自分が大将です。考えることはとても大切になってくると思います。考えることはね、空想や夢のようなことでも、どんなことでもいいんです。考える力というと、おおまかに想像力、判断力、選択力がありますよね。たとえば選挙なんて、選択力を発揮するいい機会じゃないですか。・・・・」
としゃべる外山さん。そのうえで、隠居に必要なユーモアのレッスンを話す。

どなたの話も、読む私を見透かされているように、自分の不足なところをチクリチクリと刺してくる。隠居大学の存在を知ってしまっては、これまでの自分でのんびりなどと言っておれなくなった。天野さんも、たいへんな仕掛け人である。

今後、隠居候補がどんどん増えていくことを考えるとひとりひとりが自分の生き方をもてれば、国の未来も見えてくるかも・・・。

2011年10月13日

札幌在住のアイヌ民芸の小川基・志保さんが昼近くに来室された。明日の東北学院大学創立125周年記念行事「民族歌舞の保存と伝承」に招かれ、前日仙台に着くのでセンターを訪ねたいというメールはいただいていた。去年の8月、センター主催の夏の公開講座「アイヌ文化に学ぶ」でおいでいただいて以来。このときは、お母さんの早苗さんもご一緒だった。3・11については早々と見舞いのメールをいただき、その後も何度もメールをいただいていた。

お二人からは、基さんの仕事場を訪れた人々がつくった切り絵と基さん自身の作品のファイルをいただいた。ファイルを開くと、基さんの切り絵に「新しい日本・新しい時代の始まりですね。美しい未来を創っていきましょう。いつもつながっています。」の文で始まる文が添えてあった。その他の人々の切り絵も、すべて被災地・者に向けてつくられ、「強く生きていきましょう! 僕達も一緒です。誠士朗」などの文が多くに添えられていた。それをファイルにまとめて持ってきてくださったのだ。

ていねいな刺繍の施された早苗さんからの小袋も志保さんからいただいた。

午後リハーサルもあるということで、東北学院の案内者の時計に合わせての歓談の時間は残念ながら長くはなかった。

しかし、その短い時間での2人の言葉や仕草から、再会を心から喜んでいることがあふれるほど伝わってきた。わざわざ訪ねていただき1年ぶりに会った私もうれしい。しかも、再会を心の底から喜んでもらえていることが体にビンビンと伝わってくることがなんともうれしい。それなのに、そのうれしさを言葉でも身振りでも二人に伝えきれない。伝えられたらお二人はどんなに喜ぶだろうと思いながら表現できない自分がとてももどかしく、情けなかった。

部屋を出る二人と握り合う手に力をこめたことで少し気が楽になる。

明日の公演の成功を祈る。

2011年10月08日

8月から、研究センターの学習会として「戦後教育実践書を読む会」を隔月シリーズで組んだ。今日はその第2回目、「新しい綴方教室」(国分一太郎)を読む。この案内人は私が希望した。自分のなかに国分さんのことをぜひ知ってほしいという思いが強くあり、つい「私が」と言ってしまったのだ。

それが今日終わって、ホッとした。このことが気になってのことではなかったと思う(とすればあまりに情けない)が、昨夜は、これまで1度も記憶にない腹痛に襲われて苦しんだ。会に来たKさんに「疲れているようだね」と言われた。なんと会が終わったときには、昨夜のことは嘘のように体がすっきりしていた。

「新しい綴方教室」を読むことを通して、どうしたら私の尊敬する国分一太郎を参加者に少しでも近づけたいと結構考えつづけたつもりだ。その思いの強さに参加者は大いに辟易したことだろう。

教育研究は時とともにすすんでいるのだろうと思うのだが、現職時代の私自身を振り返っても、現在の教育の仕事を見聞きしても、残された過去の仕事にはとうてい及ばないように感じるのはどうしてだろうか。及ばないのは国分さんにだけではない。宮城で私が教えを受けた方だけでも鈴木道太さん・大村栄さん・宮崎典男さん・・・と十指に余る。

少しでもよい仕事を目指すために、その方々の仕事と私たちの何が違うのかを詳しく知る必要があるのではなかろうか。

私の場合など、子ども相手のためか、ともすると「子どもの側に立つ」と口では言いながらいつの間にか忘れて授業では「教え屋」になっていることの繰り返しだった。子どもは、たいていの場合黙ってはいたが・・。

話がそれてしまった。この日のために国分さんの著書を相当数再読することができた。

どれだけの案内役を果たしたか聞くも怖ろしいが、「新しい綴方教室」の案内人を希望した私が一番得をしたことだけは間違いなく確かだ。

2011年10月03日

1日に、天野祐吉さんの講演会「『ことば』は届いているか」があった。若い人の参加も目立った。29人の方に感想文を寄せていただいたが、うち6人は10代であった。私はいろいろな会に関わることが多いが、きわめて稀と言える。

そのなかの1人の感想のなかに次のようなことが書かれていた。

「~ 昔あったこと、できたことを、なぜ今できないか、普通の暮らしとは・・・。疑問に思うことがたくさんでてきて、若い自分がしなければいけないこと、正しいことを判断していく力をつけなきゃ ~」。

この感想を読んで私はたいへんうれしくなった。

話を聴くうちに、疑問に思うことが自分の中でどんどんふくらんでいったのだ。これこそ学びであり、若いということはこういうことなのだと、大いにうらやましく思った。一方、若くてもどんな話を聴いても疑問のわかない人が圧倒的に多いようにも思う。ゆえに、この方は本当の若さをまだ保てている貴重な方と言えるかもしれない。

天野さんは、おそらく、何かを知ってもらうことを願って話をなさったわけではなく、このような聞き手を願ってのお話だったに違いない。お知らせしたらきっと喜ばれるだろう。

私がかつて、生活科の教科書作りに参加し、当時の文部省に検定結果を聞きに行ったとき、教科書調査官に、たとえば、「たろうは、まいにち がっこうへ いく。/はなこも、まいにち がっこうへ いく。/ころと みみは、がっこうへ いかない。」などの文について、「あなたたちの教科書は、当たり前のことを書いているところが多すぎる」と言われたことがあり、私は内心(こりゃあ、ダメだ。この違いはとても埋めることはできない)と思ったのだった。上記の感想を書いた若い人にあの教科書を読んでもらったら、なんと言うだろうなあと昔のことまで思いだしてしまった。

2011年09月28日

原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色

25日の朝日歌壇、高野公彦選第1首、ドイツ在住・西田リーバウ望東子さんの作。

選者の高野さんは「ドイツの選んだ道を祝う心、日本も同じ道を選んでほしいとの気持ちをこめた歌だろう」と評している。

作者の西田さんは、連日、日本の動きを気にし、福島原発のその後を心配してくださっているのだろう。住みなれた土地を強制的に追われるように離れ、いつ帰れるかわからない不安をかかえた毎日を過ごしている人々、とくに子育て中で、いちいちの食物を心配しながらの生活を強いられている人々、そして、その食物をどんなに心を込めて作っても育てても喜んで食べてもらえない生産者、日ごとに増えるばかりで捨て場がどこにもない放射能廃棄物、いったん破損すると通常の生活常識ではどうにも手のつけようのない原発事故。終わりのない事実を見せつけ、センモンカが入れ替わり立ち替わり登場しても明日が少しも見えない福島原発事故。

それ見ているのか見ていないのか、人々の安心・安全を担うことを仕事とすることにイノチをかける?と言ったセンセイ方は平気で他の原発の稼働を口にする。こんなことって、とてをも考えられない。セイジカって私たちにとってどんな人なのかわからなくなる。

ドイツの西田さんは、そんな日本の今を見ながら、「原発にさよなら」をするとどうなのか、私たちに知らせなくちゃと思ったに違いない。「空の風みどり色」、私もうらやましい!

今度の脱原発集会には私も参加しなくちゃ、と強く思う。私たちの渦を広げるより他に今の日本には道がないのかもしれないから。

2011年09月23日

7月実施の仙台市学力検査の結果が今日の河北新報に載り、「市教委は、年度末に東日本大震災が起き、学力低下が心配されたが目立ったマイナス影響はないと分析している」と書いていた。まずは、メデタシメデタシということか。

へそ曲がり故かもしれないが、この記事がなんとなく季節外れのお便りに見え、そのうえ「だからなんなのよー」とつい口走りたくなるものに思えたのはなぜだろう。

でも、私はこんな無責任なことを言っておられるが、この結果が下りていく学校・親・子どもにとっては、これからがたいへんなのだろう。どんなに正答率が上がっても、平均値が基準として居座る限り、どこまでいってもその値を下回る学校・子どもは永久にフメツ。そう考えていくと、検査結果がどのような流れで子どもまでの指導資料になるのかが気になってくる。

新聞は、市教委の説明と思うが「期待正答率は、学習指導要領に基づき、標準的な時間をかけて学んだ段階で到達してほしいラインとして、問題作成業者が設定する」とも書く。この説明に少しも間違いはないだろうが私には理解困難。「標準的な時間をかけて学ぶ」とは? 「到達してほしいライン」は誰が? などと考えていくと迷路に入り込むようで、(そうか、そういう検査なのか)とストンといかないのだ。

かつて中学に勤めていたとき、数年がかりで通信表の5段階評価をやめて、すべて記述にしたことがあった。その通信表を渡したとき、中学1年までの7年間、評価「1」のすべてを一人で背負ってきたS君が、しばらく読んでいた後、私のところに走ってきて、「何回も読めば国語がよくなるということか」と叫んだ。私は記述式にしてよかったと内心喜んだ。しかし、しばらく経ってから、毎日一緒に暮らしていながら、なぜ通信表を通して伝えなければならないのかという疑問がわいた。

子どもの学力検査や評価はたいへん難しい。むしろ、ほとんどのものは日々の暮らしのなかでこそ知ることに努めるべきでないかと思った、今でもわからないことだが。

少なくとも教育に関することは、ほとんどはAかBかではいかないことゆえに、じっくりと考えてすすめたいものだ。

2011年09月17日

いつも間が開きすぎて、日記とはとても言えない欄の担当をしていることが恥ずかしい。

この週は自分の力では負えきれないほどたくさんのことがあった。もちろん、その一つ一つはすべて自分にとってプラスになるものだけだったのだが。

センターの2人だけではとても負えないので応援をたくさんの方に頼んだ。いつも多くの方の応援で切り抜けているが、今回もそうだった。ありがたいことに、みんな快く受けてくれた。Uさん、Mさん、Kさん、Yさん、Nさんの力添えがなければこの週はどうなったか・・・。Uさんには子どもさんをも入れて一家で石巻からここセンターまで足を運んでもらった。

その間に、通信64号の原稿が次々と届き、ほぼ今月末発送の可能性も見えてきた。原稿をお願いしたほとんどの方は現役で多忙な毎日を送っている方たちなのだ。

また、私が外に出かけた日には、運営委員のSさんとDさんにで運営に関する急ぎの仕事についての話し合いをしていただいた。そのおかげで次の仕事が見えてきた。

本の販売担当を引き受けてくれ、しばらく面倒をかけるだろうAさんにとっても、特にこの週は忙しかったようだ。

 

研究センターは「多くの人に支えられている」といつも思っているし、いつもその支えによって存続し続けている。金がないと存在できないが、多くの人の支えがないと存在価値を示せないことも確かだ。

かもがわ版「3・11 あの日のこと、あの日からのこと」刊行については、読んだ人から「センターはたいへん良い本をつくってくれた」とおほめのことばをいただいている。じつにうれしい。しかし、あの本も、多くの仲間の証言集ゆえに価値があるので、私たちがセンターの机上でどんなに頭をひねっても成るものではなかった。

付け加えになるが、あの本は、発行後1ヶ月もしないで版元で品切れとなった。2刷りの間、少し待たなければならなくなった。

2011年09月09日

今日は定例の事務局会議だった。

報告の2つめにおいていた「3・11 あの日のこと、あの日からのこと」刊行のところでYさんから、「本の中の、みやぎ教育文化研究センターの説明について、『宮城県教育会館の公益事業部門の1つとして設置され』とあるのは、研究センターがそのためにつくられたかのようにとられるのではないかと気になった」という発言があった。つまり、これまで会員みんなでつくりつづけてきた研究センターの歴史がその表現ではすっぽり抜け落ちているということなのだ。

まったく言われる通りである。今年からこの研究センターは教育会館との事業統合により正式名称は「(財)宮城県教育会館みやぎ教育文化研究センター」となったのだが、本の表紙ではその頭の部分を入れなかったので、ここでその正式名称と関係を明確にすべきと考えてセンターの説明を書いた。しかし、指摘されるとおり「~として設置され」となれば、間違いなくこれまで会員みんなで歩んだ17年の歴史を切り捨てた表現になる。

私自身を振り返ると、編集作業が終わった後での補足的な仕事という気持ちの緩みがその表現にさせてしまったという悔いをあらためてもつが、「何々の見える益がある」などとまったく言うことのできないみやぎ教育文化研究センターの会員となって一口3,000円の会費を納めつづけてくださった人が400人以上もいるのだ。Yさんで言えば、そのうえ月2回の事務局会議で毎回半日をそのために無償の奉仕をつづけてきている。それは、この研究センターへもつ期待のほかに理由があるはずはない。それなのに、これまでの歩みの労苦は無視して突然「~として設置され」と言われては気持ちが収まらなかったに違いない。

一口3,000円の会費を納めてセンターを支えつづけてきている400人を超える会員の思いがYさんの言葉なのだと思いいたったとき、表紙裏に書く言葉だからと軽率な表現をした自分の気持ちのあり方に己の身の置き場がまったくなかった。これまでは、1年間をどう切り抜けるか、しかも、マンネリズムに陥らない内容の活動をどうつくっていくか、緊張の連続だった。自分では変わらないつもりでも緩みが出ているのかもしれない。短い表現の問題であろうとも見逃さず指摘してくれる人に一緒に仕事をしてもらえる自分を幸せ者とつくづく思った。

2011年09月03日

戦後教育実践書を読む会、第2回(10月8日)「新しい綴方教室(国分一太郎)を読む」のために、国分さんの本をまた読み始めた。

国分さんの書いたものは、何を読んでも明快で私は仕事で大きく支えてもらった。その論を裏付けたのは、教室の、子どもたちの、多くの具体的な事実だ。ところが国分さんは、師範卒業後、教師としてあったのは長瀞小1校だけなのだから驚く。「新しい綴方教室」が世に出たのは40歳の時。その元になる原稿は2年前の38歳から連載を始めている。

どうしてこのような人がいたのかたいへん不思議なことであり、そこをつまびらかにしないで「新しい綴方教室」を読めないと思っている。

その元になったのは、まとめて言えば、教育・綴方に関する本を驚くほど読んでいることと、地元山形に限らず東北の教師との交流が深かったこと、いや全国の実践家に広がっていたことにありそうだ。短期間に国分さんほど多くの教師との交流を持った人はいないのではないか。

国分さんのことは後日のことなのでこれで止める。

ところで、今の教師はどうだろう。勤務校以外の教師の仕事に関心を持ち学ぼうとする人はどれだけいるだろうか(ガンジガラメの中で無理との声はよく耳にするが)。用意された初任者研修等での人との出会いはあるだろう。でも、これは私の言いたいことでは論外。もし、そこだけで終わるならば、定年まで、たとえ管理職となっても、自分の仕事の大きさ、教育の深さを知らずに過ごす人になるのではあるまいか。考えようによっては、知ってしまったがゆえに苦労しつづけなければならないことを考えると、知らずに終わることは幸せな一生になるのかもしれないが・・。

国分さんが、山形東根から自転車を踏んで関山峠を越え仙台・広瀬小の研究会に参加したと鈴木道太さんから聞いたことがある。これは、前述と結んで言えば「知ってしまった」がゆえと言えるのだろう。

2011年08月29日

かもがわ出版からの「3・11 あの日のこと、あの日からのこと ― 震災体験から宮城の子ども・学校を語る」が動き始めると読者の反応が気になる。Sさんから感想のメールをいただいた。たくさんの語り手の話でまとめあげられたもの。感想を私だけのものにできない。Sさんには無断りだが次に紹介したいと思う。

『3・11 あの日のこと、あの日からのこと』昨晩読みました。

11時過ぎに読み始めたのですが、眠気も飛んで最後のページまで一気に読みました。

この読後感の良さはどこから来るのでしょう。すさまじい中を生きのびた子ども・人々の事実・記録ということ、それぞれの方の確かな表現力、そういうことはもちろんあるのでしょうけれど、私はやはり教育という営みの深さ・大きさに改めて感じ入った気がします。

「私たちは普段から子どもの命を預かっていたんだ」とどなたかが書かれていましたが、それは多分震災のような事でなくてもそうだし、そこで守られるべきその命とは、たんに呼吸をしているという意味の命というだけではなく、あらゆる意味での「いのち」なのだという意味で、やはり教師は ”聖職”なのだと改めて思ったのです。(組合の先生たちはあまりお好きな言葉ではないようですが。)

田中先生のはもちろんですが、ご一緒の臨床教育学会準備チームのお二人の方の文にも深く共感しました。

本の全体構成もいいですね。

ひとつだけ言うとすれば、表紙と帯に「教師」と言う言葉はありません。でも、読むとやはり「教師」は欲しい気もしました。

それと、「震災体験から宮城の子ども・学校を考える」とサブタイトルにあって、帯に「被災地から踏み出す教育再生への一歩」とあるので連続して読むとやや「濃い」感じもしました。教育に関心のある方が手に取るのでしょうから、それでも良いのでしょうけれど。

この本を読んでいただくことでお互いのこれからを考える素材になることができればという願いと同時に、私たち研究センターがこれから何を考えていくべきかの示唆を得たいというねらいもある。率直なご感想をお寄せいただくとうれしい。

2011年08月23日

7月2日の語り合う会終了後、かもがわ出版の編集者Mさんから本にまとめたいという話が出てアッという間にまとまった。しかも8月中に仕上げるというもの。

それからがたいへん。Mさんたちと毎日のように連絡を取り合う。そのたびに、仕事の手順の良さに驚く。電話・メールのたびに日ごと仕事がすすんでいることがわかる。すすみながら細部が修正されていくのもよく見える。

Mさんから送られてきたメールの主なものを拾ってみる。(この間に編集実務担当のWさんからのメール・電話、Mさんからの電話もしょっちゅう。)

24日  校正刷りを作成し送り、28日までにもどしてもらうよう頼んだと連絡。
順調にすすめば8月17日に見本納品予定で刊行可能とのこと。
25日  カバーラフについての意見を・・。
25日  カバー修正案届く。
26日  チラシリード届く。
27日  読者用チラシ修正版、確認を。
27日  ページ数定まり、本体価格決まるとの連絡。
29日  カバーと帯の確認を。
29日  執筆者リストと奥付についての確認を。
1日  本の成り立ちの断り書きの確認を。
2日  カバーに入る説明文の確認を。
2日  オビの確認を。
2日  本文写真撮影者の名前の確認を。
18日  本を送ったとの連絡。

こうして「3・11 あの日のこと、あの日からのこと ― 震災体験から宮城の子ども・学校を語る」ができあがった。

最後にTさんの感想の一部を紹介する。

帰りの新幹線で全部を読み通してみました。デザインもそうでしたが、内容(人々の文章、子どもの文章、そして写真)も、悲しさと美しさと、それでも生きていこうとする静かな意志が同居しているように、あらためて感じました。「3・11」の「記録」としての価値ももっているように思えました。

おかげで、仕事をしたという充足感をもつ。関わらせてもらい、Mさんたちに深く感謝。

2011年08月16日

終戦66年を迎えた昨日について、K新聞の見出しのひとつに「首相と全閣僚靖国参拝せず」とあった。この「せず」がなんとなく気になったのはどうしてか。

45年8月15日については、山の分校の小学4年生だった私にも、何年経っても薄くなることのない記憶がいくつかある。

今年と同じように焼けるような陽ざしで体を動かすたびに汗がしたたりおちてきたたこと、母は唐鍬をかついで松の根掘りに朝から山に出かけ汗まみれになって昼近くに戻ってきたこと、昼にラジオのある隣家に子どもも一緒に集まり“玉音放送”を聴きその内容はほとんど理解できなかったがなんとなく戦争に負けたらしいということを感じたこと(それを知った時の大人の様子はまったく記憶にない)、母たちは午後山には行かなかったこと、道路向かいの豆腐屋の生け垣のムクゲの花の色がすごく目立っていたこと、などである。

トラック島にいると言われていた父は何日待っても音沙汰なく、突然翌年、霞ヶ浦の病院にいるとの連絡があり、母が迎えに行き、仙台の大学病院で手術、病名はアメーバー赤痢。これは母から聞いたもので、父は病気のことも含めて戦地のことは何一つ言わなかった。しばらく仕事に就けない間、休職教師の父と2人で紙巻きタバコつくりをして闇で売り生活の足しにした。これが唯一の父との思い出と言っていいかもしれない。

7・8年前になるが、友人の紹介で、「トラック島日誌」(窪田精)を読んで、父のトラックでの暮らし、病気の原因、帰国は奇跡に近かったことなどが想像できた。

窪田はあとがきの1部で、「トラック島では、約8千名の陸海兵士が死んでいる。そのほとんどが餓死だった。私はトラック島で、生きながら人間の地獄を見た。戦争というものの実態を、まざまざと見た。私はもしも生きて日本に帰ることができたならば、この島でみたものを、なんとかして書き残したい。それが死んでいったものたちにたいしての、生き残った自分の義務である」と書いている。

この本を読むことで私は、何も言わなかった父を少し理解できたように思った。

父の病気は再発。死後どういういきさつか、戦病死ということで靖国に祀られたと連絡があった。母は遺族会の清掃にいそいそと参加したことがあった、1度だけだったが。

誰もが口では否定しながら同じ悲劇を繰り返している「『戦争って』何なんだろう・・」は、私の中に変わりなく居座りつづける最大の問題である。

2011年08月11日

今日で震災から5カ月になる。

被災地で仕事をつづける教師たちを、「あの人は・・」「あの人は・・」とひとり一人を浮かべる。夏休み期間ゆえに、真っ先に思うのはゆっくり休めているだろうかということ。「休めているか」を言いかえれば「自分の時間にできているか」ということ。

日々の暮らしの中でも自分の時間をとれると、それをどんなことに使おうと、翌日が妙にすっきりしてくるものだ。子どもの側に立って言えば、センセイに絶対そうあってほしいと願っているはず・・・。

在職中もそのごもしばらく、毎週1回の夜のサークルに出つづけた。よそ眼にはずいぶんきついように見えるかもしれないが、私には自分でその場にいることを選び参加していたので、何ひとつ苦痛はなかった。私が仕事をつづけられたのはまちがいなくその場に通いつづけたことに会ったと思う。

いつから、どうしてこうも世の中に“教師不信”と思われるいろいろなことがひろがったのだろうか。こういう世の中だから仕方ないのかもしれないが、教育行政や、はては同じ屋根の下で一緒に子どもを育てているはずの管理職まで教師を縛っておかないと済まないと思われる不信感を露わにする方もおるそうな。とても私には考えられないことだ。

被災地を歩いて聞いた、3・11の教師の働きについては頭が下がる話ばかりだった。話を聞くたびに、こんな教師たちのいることを自分のことのように誇らしく思えた。

あっという間に終わってしまう休み、少しでも多く自分の時間にしてほしい、そして引きつづき続くだろうこれからを子どもたちのために力を入れてほしいと願う。

2011年08月06日

知らないうちに8月に入っていた感じだ。

7月2日の「震災を語り合う会」が終わるまではそのことで頭がいっぱいだった。いつもの集会と違って始まるまでその是非が自分の中を行き来しているのだからたまらなかった。集会直後、かもがわ出版から、この集会と震災特集の通信、そして聞き取りをひとつにした緊急出版の話、私は大いに驚いたが、その日のうちに決定。特別なことをしたわけではないが、それからしばらく走りつづけたように思う。

4日に「講座・戦後教育実践書を読む」の第1回をもった。予想通りではあったが、参加者は少なく、主催者としては惨敗の思い。(今は仕方ないのだ)と思いながらもやはり悔しい。その思いを、佐野真一の「遠い『山びこ』」のあとがきの一部に語ってもらう。

30年後、山元中学校に赴任してきた渋谷正は、「山びこ学校」を使って輪読会を開いた事があったが、生徒は本に出てくる方言がまったくわからないと言いだした。テレビの普及は、30年前村内でやり取りされていた言葉を子どもたちの間から奪っていた。渋谷は作文を書かせてみたが、見るべき成果は得られなかった。親たちの生活が見えてこないから、問題意識も生まれてこないのだろう。

渋谷の前にいる子どもたちの関心は、もっぱら将来の生活に向けられていた。「山びこ学校」の子どもたちの関心が、現在ただいまの生活をどうすべきかという一点に絞られていた。「山びこ学校」の子どもたちは貧しくはあったが、自分たちのまわりには打開すべき現実が確固としてあった。30年後の子どもたちのまわりに貧しさはなかったが、自分が主人公になれる現実もまたなかった。

「山びこ学校」の子どもたちにとって、村の現実を学ぶことはすなわち世界を学ぶことだった。30年後の子どもたちの学習は、偏差値序列にしたがって想定されるあやふやな未来像に向けての、せめてもの預託行為だった。そこに「山びこ学校」の子どもたちの幸福もあれば、30年後の子どもたちの不幸でもあった。

今、この渋谷正の山元からさらに30年を重ねた。佐野は「そこに『山びこ学校』の子どもたちの幸福もあれば、30年後の子どもたちの不幸でもあった」と言っているが、現在、何人の教師が、親が、この佐野の言葉を素直にうけとめるだろうか・・・。

2011年07月31日

企画してからやや時をおいてしまったが、やっと「講座・戦後教育実践書を読む」を8月4日からスタートさせる。1回目は「山びこ学校」。

教育の歴史を見ると、どうしてこの時期にこんなに優れた教育実践が競い合うように本になり、多くの教師の仕事を刺激し励ましたのか。なかでも50年代は特別輝き、その後いつの間にか、その輝きは薄れていく。

私は50年代の終わりに教師生活を始めるので、まだ、灯は消えていなかったし、身の周りにも、その風を感じることはでき、半世紀前を振り返り幸せだったと思っている。

過去の遺産となり、今や書名すらも挙げられることがほとんどなくなったこれらを読み合ってみたいというのが今回の企画だ。

参加者が一緒にただただ読み合えればいいと思っている。読み合うことから、それぞれの教室に微風ぐらいは起こすことになるかもしれないと願って・・・。

まず51年の2月に「山芋」が、3月に「山びこ学校」が多くの教師を驚かせる。10月には「魂あいふれて」が百合出版から刊行、全国の24人の実践家の仕事が紹介される。この本の第1走者は無着成恭だが、無着さんはその自画像のなかで、「師範の3年の時はてってい的に学校をさぼり、山形新聞の須藤克三先生のところへ足繁くかよった。須藤先生は、よく本屋にひっぱって行き、本棚に並んでいる著者を片っぱしから説明してくれた。須藤先生は、なによりも、生きた人間、生きた社会を見る力をあたえてくれた。(中略)教師になって丸1年目の24年に須藤先生が国分一太郎先生を紹介してくれた。国分先生は何一つ教えてくれなかったが、たった一つ、人間とはこのように生きなければならない、ということを教えてくれた。」と書いている。

本との出合い、人との出会い。実践は教師と子どもとの出会いの産物であるが、そのために、人と人との出会いが大きな役割をはたしているのだと無着さんの文で感じる。もちろん、必要とする人の前にしかヒトは現れないのだろうが。

知らないから参加して一緒に読んでみようという現場の参加者のひとりでも多いことを願っている。

2011年07月25日

今日は25日。例年なら夏休みに入っているはずなのに、どこを歩いても子どもの姿に(夏休みにはいったんだ!)と思うことがなく、声も聞こえない。3・11のせいなのだろうか。学校によって休みへの入りが違うと聞くが、特別な年とは言え、短いバラバラな夏になることは子どもたちにとって、なんと悲しいことだろう。

在職中、有志で毎週1回の輪読会をもったことがあった。そのとき読んだ本の1冊に「もうひとつの教育」(村井実著)がある。その中に著者がペスタロッチの終焉の地スイスのブルックの町を訪ねた時のことが書いてあった。町に入ると、ペスタロッチの生家と記された家の石坂だけでなく、辻々の泉の中に立つ少女の像も、みな色とりどりのバラの花飾りで豊かに蔽われた。いったい何事があったのかと尋ねると、「あれは、一昨日と昨日と、子どもたちのためのお祭りがあったのです。いよいよ学校が夏の休みに入りますので、例年、こうして2日間、町じゅうのこどもたちにお祝いをしてあげるのです」との答えが返ってきたという。(いい話だなあ)と思い、今でも忘れることが出来ない。

著者は、「どうもスイスの子どもたちは、日本の子どもたちと比べて、町でも学校でも家庭でも、何かはるかに大きな幸せに恵まれているのではないかと思えるではありませんか」と、この話を結んでいる。

そんなことは前時代的、今はそんな時代じゃないよと笑われるのかもしれない。ましてや、「これが大きな幸せ?」と一笑にふされるのかもしれない。

でも、子どもにとっては、ひと夏ひと夏が大きな意味をもっていて、それが人間としての成長に欠かせない時間と私は思っている。それは、夏休みを終えて登校したときの子どもたちのいちだんとたくましくなっている姿が今でもたくさん思い出せるからだ。

私に子どもたちが夏休みの様子を見せないのはなぜなのか。もし、言葉だけの夏休みでしかないとすれば、夏休み後の子どもたちも私が過去に出会った子どもたちにはなっていないのではないだろうか。それを埋め合わせる場はどこにもないように思う。

こんなときだからこそ夏休みを子どもと同じ目線にたって子どもたち自身のものにしてあげたいな。

2011年07月18日

朝日新聞にシリーズでつづいている「いま子どもたちは」の「きわめる」が10回で終わった。(なかなかおもしろい子どもがいるもんだ)と毎日驚きながら読んだ。

1回目は涼太郎君、10歳。「『無限+1も無限。なぜと思いませんか』と目を輝かし、『とけた瞬間の頭がすっきりする感覚が一番好き』と言うのだが、学校の話をすると、ちょっとだけ表情を曇らせる。かつて先生に、「なぜ算数はできるのに体育や図工はがんばらないの」と叱られた傷が心の隅に残っている。」という。

(オレにもそんな叱り方をした記憶があるなあ)と昔を思い出す。今なら絶対そんな叱り方をしない自信があるのだが。

このこと1つとっても、センセイという職業はとても危うい仕事だと思う。普通に考えても、誰にも得手不得手があるはず。わかっていながら、「どうしてみんな頑張らないの」と言ってしまう。気をつけているつもりだが、今になるも簡単に「がんばれ」と言ってしまう自分にドキッとすることがある。

学校は「きわめる」に登場した涼太郎君たちとどう向き合えばいいのだろうか。学校は、厚い鋳型をもってまちかまえ、そこに無理やり押し込めるのが仕事だと思ってしまうから、子どもはたまらない。今の受験体制・学力向上至上主義のなかで学校は鋳型を捨てることができないのも現実だ。なにしろ教育行政だけでなく、「学力」至上の保護者の期待を一身に背負わされているのだから。家庭がおおらかに見守らないと、涼太郎君たちはいつの間にか「きわめる」を失ってしまうかもしれない。学校とは・・、教師のしごととは・・。

こんな時いつも思い出すのは、教え子の病について話し合った時、「あなたに『心身ともに健康だ』なんて思われ見つづけられたYちゃんはなんと不幸だったのでしょう。小中学生ぐらいで心身ともに健康ということがありますか」と、若い医者に叱られたことだ。

2011年07月13日

私たち研究センターが東北大学教育学部の有志(院生も入る)と「震災と教育」研究会を立ち上げたことで、急に忙しくなった感じだ。この“つぶやき”の間が空くようになったのも、言いわけをすればそれが理由のひとつだ(でも、こんな言いわけはいけないと思っている)。

11日には昼に石巻の学校を訪ね、夜は、東松島の震災を語る会に参加した。センターとしては7月2日に語り合う会をもったが、東松島では、2日に聞くことのできなかった話が聞けた。

教師仲間は、学校を地域を取り戻すために懸命になっているのだから、こちらから足繁く話を聞きに出向くことなしに「震災と教育」を広く深く考えることはできないだろうし、長い時間を覚悟しなければならないと思っている。

今日は、東北大で打ち合わせをした。これまでの倍以上の人が集まり、あわてて椅子が運び込まれた。同じような思いをもつ人たちがここにもこんなにいると知るだけで心が弾んでくる。

今、「津波と原発」(佐野真一著)を読んでいる。陸前高田に住む在野の津波研究家が、「今回の大震災から一番学ばなければならない教訓は」との佐野の問いに、「田老の防潮堤は何の役にもたたなかった。それが今回の災害の最大の教訓だ。ハードには限界がある。ソフト面で一番大切なのは教育です」と答えている。

まだ4カ月しか経っていないからとはいえ、「一番大切なのは教育」という考えでの動きを国にも県にも市町村にも私は少しも感じない。そのままであることを黙視することは私たちの無責任になるのでいろいろな形で言葉にしていかなければならないと思っている。

2011年07月06日

2日の「震災体験から 地域・学校・子どもたちを語り合う会」は終わった。

この日センターに来る前、血圧の薬をもらいに医者に行った。血圧を測り終えた医者は「いつもより上がっていますね」と言う。私はすぐ「覚えがあります」と応えて外に出た。

2日の集会がどうなるか、ここしばらく頭から離れなかったのだ。

半月前に発行した「震災特集」の通信は思うように作れなかった。それは事務局会で出された危惧が現実のものになったと言えるし、それぞれのもつ被災の落差の違いが「震災」のイメージをつくり自分にブレーキをかけていることにも気づいた。

その通信に現れた問題はそのまま2日の集会の参加の仕方にもあてはまるだろう。とすれば、「みんなで語り合いませんか」と呼びかけても、惨憺たる結果に終わるのではないかという不安が日を追うごとに膨らんでいたのだ。

2日、5人の話題提供者の話が終わって休憩に入った時、私の血圧は正常にもどっていた。心配は少なくとも5人の話の内容によって払拭されたのだ。その後も集会は発言者が切れることなくつづき、4時半終了予定が5時をまわった。

名簿で見る限り、県外からは、北海道1人・兵庫3人・愛知1人・東京11人・福島1人の参加者があり、全体で約100名だった。

西宮からの方のお話も恵庭からの方のお話も、東北の震災に真向かい本気で考えてくださっていて、宮城の参加者にとってどんなに大きな励ましになったかしれない。

時間の制約で、話せないで終わった参加者も多かった。集会後、これから私たち研究センターが取り組むべきことを考え始めているが、たくさんの仲間がまだまだ厳しい状態にある。それでもみんなで語り合うことは辛くてもこれからも大事にしたいと思う。

2011年06月29日

被災の聞き取りに臨床教育学会の田中孝彦さんたちと亘理・荒浜小を訪ねたのは4月26日だった。震災から45日目、隣校になる逢隈小学校でようやく新年度をスタートさせた日だった。

NさんとWさんからお話を伺い、その大要は「センターつうしん63号」に報告してある(このホームページにも入っている)

話を伺った後でいろいろな質問が出たのだが、その一つに「今一番欲しいものは何ですか」というのがあった。それに対してNさんとWさんは口をそろえて「お金です」と言った。2人は、「年度末のこの震災。給食費など学校への納金が済んでいない家庭がありますが、こうなってはとても請求などできないからです」とその理由を付け加えた。

私は、学用品とかの物資がいろいろ上げられるのだろうと思っていたので、「お金です」には内心驚くと共にその理由を聞き、そのことをまったく想像できなかった元教師の自分を恥ずかしく思った。

震災と教育のことをよく話し合っているMさんが最近、「あの時のお金の話だが、それぞれの学校はどうしたのかなあ」と会うたびに言う。時間が経つに従って気になるというのだ。

被災地の学校は、本当にどうしたのだろうか。私の知る限り、公立学校ほど自由になる金などないと思うからだ。Mさんが繰り返し「どうしたのかなあ」というのはそういうことなのだ。まさか被災家庭に請求するなど鬼のようなことは考えられない。

今日も2人で、「どうしたらそれを知ることができるだろうか。これからのためにもぜひ知りたいものだ」と話し合ったが、よい知恵はうかばなかった。

2011年06月23日

今日は毎年巡ってくる沖縄「慰霊の日」。前々日の21日には、日米閣僚会合で普天間移設を先送りして辺野古V字滑走路で合意したと報じられた。沖縄に集中する基地問題は何も進まない。

今日の「天声人語」に沖縄とナポレオンの話が載っていた。「~沖縄には武器がないという話を、ナポレオンは理解できなかったそうだ。『武器がなくてどうやって戦争をするのだ』『いえ、戦争というものを知らないのです』『太陽の下、そんな民族があろうはずはない』とナポレオン」。

もちろん、ナポレオンを紹介する話ではない、沖縄はもともとどんなところかということを語っているのだ。しかし今や、その、「戦争というものを知らない」沖縄は日米安全保障の名で基地の島となってしまっている。しかも、そんな民族があろうはずはないと思っている「ナポレオン」が日本人でも多数なのだろう。海外に自衛隊を送り、「本土」という名で沖縄に基地問題を押しつけた格好で半分知らん顔をしているのだから。

1951年に「死の商人」(岡倉古志郎著)が出版されたとき、大学生だった私は、若い憲法学者のKさんから紹介され、まず書名に驚き、その内容に驚いた。その後岩波新書で改訂版が出た。その改訂版で岡倉は、「戦争=死の商人=資本主義の発展」と書いているが、ちょうど半世紀前、この図式はいっこうに変わっていない。

まちがいなく自分も入る問題なのにヒョウロンカふうの書き方しかできない自分自身がもどかしい。

2011年06月19日

この頃ひっきりなしに見る夢はなぜか教室に立っている自分だ。昨夜は、大騒ぎをして暴れ回る子どもたちを必死に制止しているのに、どういうわけか、親まで大勢加わり私は隅の方に追いやられていた。

教室の夢での自分は一度も満足な教師の姿はない。私に残された時間が少ないゆえに、教職時の悔恨の情だけがふくらんでくるからだろうか。こんな夢を見たからといって、それで償いになるわけでもないし、子どもたちに許してもらえるわけでもない。自分ではある程度リキを入れて取り組んだつもりでも、エラーの思い出は数えきれない。

最近、「数字と踊るエリ」(矢幡洋著 講談社)を読んだ。帯には「自閉症と言われたわが子が家族の力で驚異的な成長をとげるまでの9年間の記録」とある。

就学時検診の結果、「特殊学級への進学を推奨します」という通知に愕然とする臨床心理士の著者。悩んだ末、特殊学級推奨を断り普通学級に入れる。

私はこの冒頭の部分で、かつてのA君を思い出した。A君の中学進学を前に、考えた末、「中学は教科で教師も替わるし、他の小学校からの仲間と一緒になるし、特殊学級でゆっくり暮らさせたらどうでしょう」と母親に言った。その瞬間、サッと変わった母親の顔色は今も鮮やかに私の中に残る。

「特殊学級に」という薦めを臨床心理士でさえも抵抗がありすんなりとけ止め得ないことを、私はあの時、よかれと思ったとはいえ、母親に言ったのだ。この本を読み終えるまで、私の中でエリはA君と絶えずダブった。私が固定的に考えていた自閉症を、著者は超人的な努力によって、エリを感情表現ができるまでにしてこの話は終わる。

読み手の私は素晴らしい事実に驚き、ホッとしながらも、A君を自閉症と決めつけ、安易な心遣いで必死に子育てをしている母親を悲しませる言葉をはき、A君との毎日をつきあい以上の何事もしなかった己の中の悔いは大きくなるばかりだった。

昨夜の夢にA君の姿はなかったのだが・・・。

2011年06月14日

7月2日(土 1時~4時半)、フォレスト仙台2F会議室を会場にして、「みんなで語り合いませんか ― 震災体験から 地域・学校・子どもたちを」の集いをもつ

3・11に関する事実、それらに関わる想いを、参加者のみんなで語り合いたいという願いから企画したものだ。

事実を、そして想いをそのまま語ると言っても、その重さを考えると、言葉にすることは決して楽なことではない。だから、集いをもつことを危惧する声もあった。辛いことをわかっておりながら、何でそんな会をつくるのかと問われると前述の願いのみなので苦しい。

それでも私は集いをもちたいと思う。厳しさを乗りこえるために、言葉のもつ力を信じ寄りかかりたいと思う。人と人とをつなぐ言葉の力に今だから頼りたいと思う。

被災地を一緒に聞き取りをして歩いた田中孝彦さん(臨床教育学会代表)は、後日インタビューを受けた新聞記事の最後を次のようにむすんでいた。

教師たちの震災体験の語りを聞くこと。
彼らとともに、彼らのこの間の働きの意味を確かめること。
彼らが教師として働き続けられる条件を考えること。
地域の再建と学校の再建とを結びつける「復興」の道を探ること。
教師、住民、他領域の専門家たちが、共に考えるための言葉を紡いでいくこと。
これらに、私は、臨床教育学に携わる一人として、時間をかけて取り組みたいと考えています。

と。

上にあげられている5項目を今後私の中でも大事にしたいし、集いの中でもこれらに関することがたくさん出されることを期待している。あまりに大きな問題に取り組むので今度だけで終わりにしたくないとも考えている。幸い、田中孝彦さんは7月2日の集いに参加してくださるし、現地に入った他の学者も参加するというので、これからに示唆するものが多くの人の語らいによってつくれるのではないかと秘かに期待している。

2011年06月11日

あの日から3カ月目。久しぶりに生活科サークルの集まりがあった。3月の例会が翌日の12日に予定されていたのだから、ちょうど3カ月ぶりの顔合わせになる。案内係のOさんから3日前に案内ファクスが届く。

3月11日に起きた大震災から3カ月。未だに、その爪痕の多くが残されたままです。生活科の例会は、今月になって会場を確保することができました。例会に参加の皆さんの近況はいかがでしょうか。

と書いてあった。

いつ再開するのだろうと思っていたのだが、会場の市民センターが今まで使えず、休んでいる間に仲間の新学年がとうにスタートしていた。

集まってしばらくは、堰を切ったように「あの日」のこと、「あの日から」のことが語られる。何しろ3カ月ぶりなのだから。

しばらくしてそれぞれの新学期が語られ出す。今日集まったメンバーで職場の異動は若いKさんだけ。Kさんは、「去年まではガクシュウインの子どもたちだったが、新しい学校の子どもたちはまるっきり違う」と、子どもたちの日々の事例紹介。なかなかの子どもたちだ。

しかし、Kさんの話しっぷりはまったくグチに聞こえない。しかも、「それでも、今のところ、教室に向かう時は、スキップしながら行っています・・・」と。聞きながら(いいセンセイだ!)と思う。

帰り際に、「次からの報告を楽しみにしているよ」と浴びせられ、「はい!」と元気に応えてKさんは車に乗り込んだ。

歳を重ねるほど、自分の教室を語れぬことの負い目と先輩面をしてしゃべっている自分に気付いた時の厭らしさでどうしてもサークルに出るに足が重くなっているのだが、Kさんのような若い人からもらう力は大きい。

2011年06月04日

この頃、なんとなく気分がすっきりしない。他人のせいにするわけではないが、その因のひとつは、テレビから耳に入ってしまう、あの実にあきれた政争(?)のような気がする。この調子ではいつまでもつづくのだろう。彼らにはもう期待はすまいと思っても聞こえてくるのだから始末に負えない。自分にとってはこの上ない迷惑、人災だ。

精神科医の中井久夫さんが、阪神震災50日間の記録に「東日本巨大災害のテレビをみつつー3月28日まで」を加えた「災害がほんとうに襲った時」を出している。

その3月26日の記録の中に、次のようなことを書かれている。

私は外国人の疑問に対して、日本人は「無名の人がえらいからもっているのだ」と答えてきたが、これは外国人といえども認めるのにやぶさかではないようだ。無声映画をみているほど静かなのは東北の人ならではのことかもしれないが、大阪人も大阪人なりに考えているようだ。

神戸の震災でも、震災直後からとっさの智慧を働かせ、今この状況の中で自分に何ができるかを考えて、臨機応変に対応した無名の人々を挙げることができる。

中井が言うように「日本人は無名の人がえらいからもっているのだ」と私も思いたい。

そうでないと、口からとびだす言葉は「国が」「県が」「市が」が先になってしまうし、テレビ・新聞からのイライラはつづくだろう。確かに、間もなく3カ月になるが、その間に、無名の人々の数えきれないほどのすばらしい事実が伝えられ心を揺さぶられた。

中井は、「今回でも、世界は少し賢くなると思いたい」とも言っている。そうだ、私たちが少しでも賢くなることだ。

2011年05月28日

テレビ・新聞の毎日のトップニュースは「フクシマ原発」になって久しい。その間、この道のセンモンカと称される人たちが入れ替わり立ち替わり何人出てきたことか。その日が何日続いても、私の中のフクシマはあい変らず視界ゼロである。私のような者にも向うが見えるようにどなたがしてくれるのか・・・。

政治家の動きや国会審議の様子も知らされるが、これまた、報道されるセイジカの論議の内容には期待されるフクシマやその他の被災地のこれからがまったく出てこないと言っていい。それどころか、報じられるのは、今をそっちのけにして小さい子にも笑われそうな永田町だけのミニクイミニクイ争いだけ。せめてしばらくは当面の課題にひとつになってかかれぬものか。報じる方も、イヌモクワナイものを見せるのはやめてほしい。新聞もテレビも、「国会の動き ― 今日も同じでした」だけで十分だ。

じゃ、だれがどうするか。孟子によれば(私の読みまちがいでなければ)、「人に治められる者は人を食(やし)ない、人を治めるものは人に食(やし)なわる」のが政治だと言う。

私には孟子の言葉は大いなる皮肉に響くが、永田町の住人は孟子を素直に信じこんでいるらしい。困ったものだ。しかし、冷静に考えれば、彼らをヤシナウようにしたのは私たち一人ひとりと言うこともできる。とすれば、今さら見たくもない聞きたくもないと言ってすますわけにもいかなさそう。じゃあ、どうすれば・・・。

加藤典洋さんが、「一冊の本」5月号の巻頭随筆でフクシマにふれた文を次のように結んでいる。

「すべて自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、いわゆる正規の思想、専門家のやり方をチェックするには、こうしたアマチュアの関心、非正規の思考態度以外にはない」と。

私は素直に納得だ。そうだ、いろんな損得勘定で発する言葉や動きよりも、アマチュアのもつ五感をフル動員したら、向うが見え、前進できるのではないか。そうなったとき、センモンカもセイジカも少しはあわて感じるかもしれない。それは、国だけに言えることだけではなく、県にも市町村にも通じると考えたい。(へんに力んでしまった自分が少々気恥ずかしい)。

2011年05月22日

石巻に「あすみの会」という教師の学びのサークルがあることを知る人は多くないと思う。もちろん私の知る限りになるのだが、県内の教師の地域サークルとしての動きにもっとも興味をもち期待しているサークルだ。

雑誌「カマラード」22号が「サークル訪問記」として「明日見の会を訪ねて」を載せている。この号は1998年1月刊行になるので、今から13年前になる。

この取材のためにサークルの例会をのぞいた加藤修二さんは、「若いって、いい。裸の自分を出せるのだから」「集まった仲間のだれもがレポートに真摯にむきあっている。羨ましいなあ」「いただいた『あすみの会通信』はなんと120号!」などと書いていた。

その「あすみの会」のひとり、山口さんからいただいた今回の「震災特集」通信原稿は、

「~石巻ではこのような状況の中でも、『あすみの会』という学び合いのサークルを続けています。それは、津波で犠牲になった佐々木祐一先生(大川小)が一番大切にしていたものであり、私たちに残してくれたものだからです。そして、佐々木孝先生(大川小)と共に学び合ったサークルだからです。大きな悲しみを背負いながらも、『あすみの会』の仲間は、確かな歩みを進めています。」

と結ばれていた。無念にも核になる人を震災で失っても、遺された仲間が「確かな歩みを進めています」と言い切れるグループなのだ、「あすみの会」は・・。

お礼のメールを送ったら、山口さんから次のようなメールが返ってきた。

私たちは地域サークルをつづけていきます。

地域の学校を地域で守り、育てていくためにも若い教師が集えるようなサークル活動を目指していきます。

石巻の仲間は前を向いて歩きだしています。

私はたいへんうれしかった。この震災特集を組まなかったら、山口さんからこのような力強いメールをいただけることはなかったわけだし、このような教師・山口さんのいることをも知ることがなかったかもしれないのだから。

「あすみの会」はどんな苦境に立っても明日を見ることから一歩も引くことはないのだ。なんとなく毎日をおくっている私が、震災の残したたくさんの傷と向き合って奮闘している「あすみの会」から受けた刺激は言葉に容易に表せぬ大きさだ。

2011年05月16日

今、迷いでグラグラする気持ちを抑えながら2つの企画を進めている。

1つは、6月発行のセンター通信を多くの会員の原稿で「震災特集」を組むことであり、もう1つは、7月2日に、「震災体験から地域・学校・子どもたちのことを語り合う」集いをもつことである。

「あの日のこと」「あの日からのこと」を会員みんなで文字にする。人それぞれの3・11の辛い事実、3・11の事実に胸を突き刺された想いを誰もがもつわけだが、この時研究センター会員であったということで一緒の誌面にその3・11を書き残し、互いに読み合うことで自分を人間を問い直すことはできないか。文字は残る。何度何度も読み返せるのではないか、と。

「あの日のこと」「あの日からのこと」をみんなで語り合う。それぞれの人のもつ事実を自分の声で話す。自分の耳で直接聞く。一堂に会して、お互いに姿を見せあいながら話し、聞く。その語られる事実や想いは、その声の響き、その人の姿は、聞く人一人ひとりの事実とつながりあいながら、それぞれに明日への何かを生むのではないか・・・。

津波で学校を使えなくなったYさんは、「あの時の私たちのとった行動はどうだったのか、毎日考えつづけています」と電話で話していたが、誰もが精一杯の動きをし、それでもなお、誰もが「あれでよかったのか」と自問しているということを互いに知ったら、少しは気はゆるくなりはしないか。

そんな想いをいろいろ巡らし、「通信特集」や「集まり」をつくることなら私たちの研究センターでもできる。そんな思いからの2つの企画である。

にもかかわらず、(今、あの日のことを書いたり語ったりできるか、なんて無神経なことを仕組むのか)と思われているのではないかという心配は企画した時から今も少しも消えることがない。

それでも、この2つにもつねがいのようにすすみ、これからの自分たちを考える企画になることを祈りながら仕事を進めている。

2011年05月11日

今朝の河北新報1面トップの見出しは「震災2カ月不明9800人超」。

2カ月経つのに、未だ、あれは私にとって何だったのか、自分への問いをくりかえしつづけている。人間である自分の今のあり方にノーを突きつけられたことだけははっきり自覚できる。問題は、ではどうすればいいのかなのだ。

この頃の朝日歌壇の4人の撰者とも毎週、震災を歌ったものを数多く選びつづけている。それだけ震災をテーマにした投稿歌が多いのだろうが、撰者の意識の中に、もっともっと震災を考えつづけようという思いが強くある証とも思える。

8日の馬場あき子選第一首は、「記者らみな『瓦礫』と書くに『オモイデ』とルビ振りながら読む人もいる」。

私も「ガレキ」とそのまま使っていた。「オモイデ」と読む人との距離の大きさに恥ずかしさを覚えるが、この距離を縮めることはできるのか、できないまでも、何を、どうしたらオモイデとルビ振る人たちと未来への歩みを共にできるか。自分への課題はふくらむばかり、向うはまだ少しも見えない。

今朝のテレビの原発継続についての自治体へのアンケート結果も私たちのもつ課題を如実に示していた。

急を要するものも入れ、「復興」のための手順はまちがいなくある。それと並行してみんなで問いつづけなければならないものに「私たちのあり方の問い直し」が含まれていることを決して忘れてはならないように思うのだが・・・・。

2011年05月05日

前回、ドストエーフスキイ全集の最後の2冊を買えなかったことに触れた。1回240円の宿直手当が給料以外の唯一の収入。積極的に同僚の分を引き受けて「夜の学校を守って」も本代にはなかなか回らない。また、勤務地から仙台も当時はずいぶん遠かった。

そんな私を助けてくれたのが仙台から時々あらわれる教材屋のKさん。

ある時、Kさんとの雑談で本を買いたくても買えない話をすると、「欲しい本があったらいつでも言え。私が買ってくる。本代はボーナスの時でいい。いや、いつでもいい。」と言ってくれたのだ。数多くの学校を回っているKさんに(迷惑をかけては・・)」と思ったのだが、「気を使うことはない」という言葉に甘えることにした。

初任地の勤務は3年間で、その後同じ町内の中学校に転任した。その中学はKさんの販売エリアではなかったが私への本の配達はしばらくの間つづけていただいた。

今も書棚に並ぶ、100冊を超える「日本古典全書(朝日新聞社刊)」などいくつかの全集はKさんに買っていただいたものだ。

「私が学校をはじめたとき、子どもを学校に適応させようと思わなかった。子どもに適応する学校をつくろうと考えた」という、サマーヒル学園のニイルを初めて知ったのもKさんに買っていただいた本によってだった。

溜めていた本代を払うとき、Kさんは必ず1割引いてくれた。本好きの私のピンチはKさんによって救われた。

しばらく後、勤めが偶然仙台の地になり住まいも移した私は、さっそくKさんの住所探しを始めた。お会いして長年の礼を述べたかった。やっとお宅を訪ねることができたときにはKさんは既に他界しており、霊前で手を合わせるだけの礼しかできなかった。

私がKさんにたいへんな世話をいただき始めた頃は、映画「三丁目の夕日」と時がほぼ重なる。

2011年04月30日

世界文学全集(池澤夏樹個人編集)を出す「河出書房新社」は創業120年記念事業となっている。学生時代、ドストエーフスキイ全集全16巻(米川正夫訳)が「河出書房」から出されることを知り、大いに悩んだ末に買いつづける決意をし、全集は今も書棚の中央に陣取っている。

「創業120年記念」が特に目についたのは、このドストエ―フスキイ全集の発行が6巻までは河出書房、第7巻からは河出書房新社になっていることからである。

今日は久しぶりに家でぼんやりと過ごせたので、書棚から引っ張り出して奥付などを眺めてみた。第1巻は昭和31年10月30日発行。貧しき人々・分身など3篇所収。定価630円。私は当時大学3年。ちなみに授業料は500円で奨学金2000円を借りていた。

第7巻は昭和32年7月15日発行で、この号から「河出書房新社」になった。この号の月報に編集部の「ごあいさつ」が載っているので1部を抜いてみる。

「~去る3月末、小社は経営上の不始末から業務停止のやむなきに立ちいたりまして、決定版ドストエーフスキイ全集の刊行も中絶いたし、長い間、御愛読いただいておりました皆さま方に、非常な御迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。さてこのたび債権者各位並びに諸先生方の御好意によりまして、新たに河出書房新社として再出発いたすことになり、本全集も継続刊行できることになりました。本日はいよいよ第7回配本「白痴」上巻をお手元にお届けいたす運びとなりました。~」

ところで、よく調べると、私のもつ全集は第14巻「作家の日記(上)」で終わっていて、15(中)・16(下)が抜けている。今回初めて、そのわけがわかった。第14巻は昭和33年3月25日発行。大学卒業の月で、15巻が刊行されたはずの翌月の4月私は教員になっている。4月からの給料の手取りが七千円ちょっと。ドストエーフスキイ1冊は給料の1割近くにあたり、ついにその後の全集は買えなかったのだ。

学生時代なんとか買いつづけることができたのだが、給料を手にする身になって、息切れしてしまったということになる。なんとも情けない教師生活の第1歩でもあった。全集発行が中断しなければそろっていたということになり少々残念だが、社員の熱意で「新社」をつくり発行がつづき、出版社が創業120年になるということになることは大いに喜ばしいことである。

2011年04月24日

いま、「光の指で触れよ」(池澤夏樹著)を読んでいる。

あることを契機に家族がバラバラに暮らし、それぞれがその暮らしの中で、これまでにない体験をする。

新潟で暮らす森介が父・林太郎たちに大雪の日にあった文治先生の言葉を聞かせる。

「暖房も食べる物もいつでもあると思うな。自然というのは恐ろしいものだ。あの雪を見ろ! こっちがうんざりするほど降って、いつになってもやまない。こっちの声は自然には届かないんだ。もういいです、止めてくださいと叫んだって、雪は止まらない。自然が意地悪なのではない。それならまだいい。自然はまったく無関心なんだ。人間がどうなろうと、そんなことはどうだっていいんだ。だから恐ろしい。たぶんこの雪ではおまえたちは死なない。だが暖房も食べる物もなくて自分が死ぬという事態を想像してみろ! 人間のいない世界を想像しろ! それだけ言うと文治は教室を出ていった」

この森介の話を読みながら、今回の震災についてのもろもろのことが私の頭の中を猛烈な勢いで巡り始めて止まらない。森介は、いや文治先生は、私にも話しかけてきたんだ。

文治先生は、次のようなことも言ったと森介は言う。

「だいたい、未来はわからないんだ。わからないから未来なんだ。物理は哲学だ、とも言う。だからいつも話がどんどん広がる。答えを疑えというし、物理なのに正解はないと言う。計算の結果はいつだって仮の答えだ」と。

震災についての巡りは私の中で止まらない。そこに、「答えを疑え」をぶつけられたとき、とつぜん頭をかすめたのは、震災の復興の中に、画一的な学習指導要領を根本から考え直すことを必ず組み込まなければならないということだ。私たち一人ひとりのものの考え方が柔軟で想像力あふれるものにならなければ未来につながる本当の復興にはならない。それには少なくとも、文治的、柔軟な教育だけが道を拓くのではないか・・・。

2011年04月17日

Aさんの車で、仙台市岡田に住むSさんの震災見舞いに行った。Sさんは長年お世話になっている大工さん。1階の屋根下まで水が来たという。ひさしのそちこちがつぶれ、庭の真ん前にどこからか流れてきた鉄骨むき出しの倉庫が居座っていた。Sさんは「この倉庫があるうちは片づけがうまく運べない」「2階は使うことができるのだが、1階がすべて使えないので、結局は解体ですね」と言っていた。

この場所に津波が来ることをこれまで考えたことはまったくなかったという。「津波が来るという知らせで私たちは逃げたが、『ここまで来るはずはない』と茶の間にいた人は水に飲まれたようだ」と言っていた。

Sさん宅から海岸沿いを走ってみることにした。七北川沿いにすすみ、そこから仙台港・多賀城・七ヶ浜・塩釜・松島・野蒜の浜から東松島、最後は石巻港付近から駅前通りを走った。どこを通っても津波の跡のないところはない。塩釜・松島はなぜか他とは違って大きな痛みは目に入らない。それ以外の地はどこを通っても瓦礫瓦礫、建っている家も中はがらんどう。東松島では瓦礫の山に2人の女の人が立ち、棒を手に何かを探しつづけていた。

菖蒲田海岸につづく御殿山の陰になる入江の波打ち際にコンテナが4本打ち上げられていた。その1本のそばに、しゃがみこんでいる喪服の女の人と海に向かって立つ法衣の人がいた。僧侶は読経をあげているのだろうか、時々、女性は何かを手渡し、僧の手によって海に向かって繰り返し投げられた。2人の周りを小犬が行ったり来たりしている。その後僧の両手に奉書が長く広げられ、しばらく風に舞う。僧侶の声は離れている道までは聞こえない。

女の方の連れ合いがこの海で亡くなったのか、親族はいないのか・・、もしかすると、あの女の方ひとりと小犬だけを津波は残したのだろうか・・・。

砂浜の光景を背負って後の場所を歩きつづけ、家にもどったときは、陽はとうに落ちていた。

2011年04月12日

昨日、通信62号をやっと発送することができた。3・11が予定を大きく狂わせたのだ。

発送が大きく遅れたのに、今回は、今までになかった悩ましいことがいくつかあった。

一つは、震災1カ月後も経って届けるのに、「みやぎ」と名のつく研究センターの通信の内容が、震災にほとんど触れていないことである。すべて依頼原稿ですでに組んであり、震災後すべてが止まったのでどうしようもなかったのだが。

二つ目は、通信の送付状を容易に書けなかったことである。これまでは、「会員様」宛てに気楽に書いていたが、今回はそうはいかなかったことだ。とくに被災地のことを知れば知るほど、会員の一人ひとりの姿が浮かんできて、このことばはあの方には不適だとか、この文はこの状況のなかではまずいのではないか、とかさんざん悩んだ。そのあげく、恥ずかしくなる送り状しか書くことができなかったのであった。

三つ目は、通信と一緒に、次号を「震災特集」にする目的で、それへの寄稿を会員のみなさんにお願いしたことである。このことを事務局会に提案するまでずいぶん悩んだ。「復旧の仕事に全精力をかけている時、しかも、あの事を今すぐ書けなんて、あまりにノーテンキなことを。なんて鈍感な!」と思われるだろうということが頭を離れなかった。でも・・。センターができること、センターだからやらなければならないことは何か。まさかテレビのコマーシャルのような「がんばろう!」などとかけ声をかけることではないだろう。被災地の会員もそうでない会員も、思いをストレートに出し合い、それを交換できる場をまずつくることは通信ではできるのではないか、それを次号でやってみよう、と決めた。事務局会でも私の心配することも出された。それを押してお願いすることにし、お願い状を同封した。お願い状を送った後の今もよかったかどうかはわからないでいるが願いがかなえられて特集がつくりたい思いは変わらない。

2011年04月07日

Tさんに案内をしてもらい、仙台の被災地の海沿いを歩いた。荒浜の防潮堤に立って海を眺めていると、そばにひとり立っていた方が「こんなに静かな海なのに・・。津波が襲ってくる前には何百メートルも沖に潮が引いたんでしょうねー」と話しかけてきた。堤防に沿っていた防砂林の松は樹齢数十年と思われる木が私の背丈ほどのところで真っ二つに折れて所々に立っているほかは、根こそぎ引きぬかれ、海岸をどこまで離れても根をつけたままそこかしこに横たわっていた。体育館の屋根のすぐ下に突き刺さったまま宙に浮いている感じの大木まであった。

被害は東部道路を境にして海側にあった家屋はほとんど姿を消し、わずかに家の形を残して立つ家も近寄ると内部はすべてガランドウだった。荒浜小学校も東六郷小学校の中も同様だった。建物の中に車が押しつぶされ、流れてきた家屋の木材と一緒に閉じ込められていた。先生たちの通勤車であろう。

荒浜小の3階4階には、その日避難した人たちが夜を過ごした時使ったのだろう段ボールと毛布がそのままになっていて、恐怖で眠ることもできなかっただろうたくさんの避難者の様子が想像された。

両校とも、他校に移るとのことで、先生たちが残ったもので使用できるものの運び出しをしていた。このような仕事を毎日つづけているだろう先生たちの体は大丈夫なのだろうかとたいへん心配になった。東六郷小には自衛隊の車両が運搬の手伝いに来ていたが。

数年前、センター通信の取材で訪れた東六郷の地域は一軒の家も残っていなかった。東六郷の良さをいろいろとあげ、地域と学校に誇りをもち、「統廃合には絶対反対です。小さくとも学校をここからなくしたくない」と話していたのだったのに・・・。

新聞やテレビの報道でも大きな衝撃を受けていたのだが、現地を歩いた今日受けた衝撃はこれまでと比べものにならなかった。頭の中が混乱し、Tさんに対してもうまく言葉も出ない。

仙台の穀倉地帯になるこの地の田にはまだ海水が残り、ガレキも散乱している。そのなかでひとり水路をつくるために重機を動かしている人がいた。できるだけ早く海水を流そうとしているのだろう。機械を動かしている人の姿から沈みっぱなしの気持ちに明かりをもらった感じで帰路についた。

2011年03月31日

昨日亡くなった彫刻家の佐藤忠良さんにはたいへんお世話になった。ずうずうしくもアトリエをお訪ねしたこともある。その時は、フランス文学者の佐藤朔さんの頭像を制作中だった。「なかなかうまくいかない」と言っておられた。ちょうど宮城県に作品を寄贈することになり、県議会に提出する目録をつくったというときだった。「自分で寄贈作品目録をつくるなんてとてもできないので、すべて任せた」と、弟子の笹戸千津子さんのつくった目録を見せていただいた。忠良さんとひとつになった広いアトリエの中の様子は今も私の中に残っている。また、この日、東京造形大学の名誉教授第1号の証書を見せていただいた。なみなみならない力を入れ込んでいる造形大学名の「第1号」は心からうれしそうだった。その書を手に大学ではこんなことを大事にしていると力を込めて話された。笹戸さんはたしか1期生だ。

私のクラスの6年生に忙しい時間をさいて彫塑の授業をお願いしたことがある。「自分の仕事がまだまだあるから、他所でもということにはならないように」ということで来ていただいた。2時間の授業だったが、忠良さんはとても楽しそうに子どもたちと向き合っておられた。(この時の写真と授業の報告を、かつての雑誌から、このホームページの授業実践の部屋に転載したので、ご覧いただきたい)。

講演も2度お願いしたことがある。1度は東北の民間教育研究会の集会の記念講演。演題は「私と彫刻と教科書」。1983年の夏で、山形で個展を開く前日で講演を終えるとすぐ会場を後にされた。

この講演の前に、国語教科書のなかの文学作品が自民党から問題ありと攻撃され、そのなかに、忠良さんが絵を担当した「大きなかぶ」も取り上げられた。それにいち早く反応しぐらついた光村出版を怒った忠良さんは、すぐ光村の絵をおりた。

講演の最後は、その教科書問題にふれながら次のように話された。出版社だけの問題に終わらせず教育にたずさわる者すべてが考えたいものだ。

~(光村に)お医者さんと教育のことだけは、あんまりみっともないことはしてほしくないって言ったのです。あなたたちが1円献金すれば、1円だけ教科書が悪くなるはずだ。何十年も日本の教科書はいいものが出ていない。本を安くあげようと思うから、三流の絵かきに本を頼む。絵を頼まれる三流の絵かきはアルバイトだと思うから、ますます粗末な絵を描く。だから何十年経っても、日本の本はよくならない。私は、教科書というものは、一流の人が絵を描いて、一流の人が文を書いてないといけないと思うのです。ところが、一流の人というのは本をバカにしているんです。・・・ ~

ご好意にあまえて本当にご迷惑ばかりおかけしてしまったものだ。そのなかで、ものごとへどう向き合うかについて忠良さんから受けた刺激は私にとって大きい。

これまでのことについてお礼を申し上げ、謹んでご冥福をお祈りいたします。

2011年03月28日

今日の帰り、震災前、通常通勤に利用していたバス・緑ヶ丘線に乗った。崩落個所の復旧中のため経路を変更しての運転。

今朝までは、バスで下りて地下鉄を利用していた。これも、丘から下りるバスが通るようになるまでは地下鉄駅まで片道30分を歩きつづけた。

ここ緑ヶ丘に住んで40年になるが、住み始めた時の地名は「長岫」(ながくき)。私は初め読めなかった。「岫」―「ほら穴のある山、またはそのほら穴をいう」と角川漢和中辞典は書いている。この地に戦後開拓者が入った。そこに宅地業者が目をつけて丘全体が宅地化されていった。斜面は初めて通る人が決まって驚く石積みの宅地。宮城県沖地震では、ある部分だけ稲妻が走ったように線状に丘の上まで家が壊れた。あとでわかったことだが、澤を埋めた上に建てられた家だった。今回もある部分の斜面の家々に避難勧告が出された。地名「長岫」を「緑ヶ丘」に変えたのは業者だろう。読みにくい地名、ましてやほら穴のある山では大いに印象がよくない。いつの間にかいかにも住み心地のよさそうな「緑ヶ丘」に定着したのだろう。

しかし、過日の法務省が行った土地測量の際の地図にはまだ長岫は生きていたことを知った。とは言え、誰ひとり「長岫」という人はもういない。

私が住んでしばらくは、屋敷の中に、季節の野草がそのときどき、取っても取っても姿を現した。ちょうど今頃は、フキノトウがそちこちにあらわれ、何回か天ぷらにしたのだが、今年は3つしか取ることができなかった。私の家の狭い敷地も40年の間に人の手が制した証拠だろう。

震災のあとで、昨日やっと水が出るようになり、ガスを待つ身ゆえか、庭に3つだけになってしまったフキノトウに、消えてしまった地名「長岫」に、自然との共生のあり方をいろいろ考えさせられた。(地名を平気で変えることも人間のおごりがあらわれていると言えないだろうか・・・)。

2011年03月22日

いつまでも気にしているだけではと、昨夜こわごわと東松島市のSさんに電話をした。ここもひどい被災地だからだ。電話は通じSさんの声。「昨夜、固定電話が使えるようになった。自分の家までは津波はこなかった」とのこと。緊張はもどったのだが、種々の話のなかでYさんが亡くなったことを知り、からだ中から力が抜けた。

Yさんは、6月のセンター10年度総会で、研究センターへの大きな期待と希望を述べてくれた。話を聞きながらYさんに応える仕事をしなくちゃと思った。その後何かをもつごとにYさんの反応を思いつづけていた。9月発行の通信61号では、若い教師たちの座談会への感想を書いてもらった。

「(大変でも)教師という仕事をやめたいと思っていないことに、まず安堵しました」と感想は始まり、「頼られていやな人間はいません。自分から、心を開いて話してみてはどうでしょう。話す中で、悩みの意味や深さ、解決の見通しや仕事の明日が少しずつ見えてくると思うからです。私たちも、若い先生方に、もっと具体的な援助をできるだけしていかなければならないとあらためて感じました。」と結んでいた。サークル「あすみの会」の推進者であるYさんらしいメッセージだと私は読んだ。あのYさんが子どもたちの前に2度と立つことのないことを想像するとやりきれない思いになる。

津波に命を奪われた会員がもうひとりいる。南三陸町の中学教師Mさんである。数年前、Mさんが支部専従時代に、女性部の学習会に呼ばれたことがある。東北本線新田駅までの送迎をしてくれ、会場までのやや長い時間の往復、いろんなことをしゃべり合ったことを思い出す。私の知るMさんは大声でエンゼツをするタイプではない。静かにこまめに世話をしている姿だけが記憶に残る。学校でもそうだったろう。もしかすると、その彼の人間性が命を失うことに結びついたのではないかと想像する。

Yさん Mさん、安らかに 安らかにお眠りください。

450人の会員の消息は把握できていない。まだまだ心配だ。

2011年03月16日

10日も日記を休んだ。日記をストップさせるY男に嫌味を言っていた自分を思い出した。

10日の分を書いて11日に送る予定でいたが、午後の事務局会議の準備、それに教育会館の専務と昼時間に話し合いとあり時間がとれず、会議の後にと決めていた。

その会議中だ、巨大地震が襲ってきたのは。14時46分。7坪の部屋の物、主として本だが、突然の大暴れ。常日頃の恨みをはらすかのように襲いかかってきた。逃げ出すより道はなかった。

すべての生活手段が止まったので、世の中のことはしばらくわからずにいたのだが、しだいに入ってくるニュースにしばらく言葉を失ってしまう。

昨日でセンターの部屋の片づけをだいたい終了。しばらくは考えごともできず、昼は陽のあたるところを探して本読みなどしてボンヤリ。やっと、センター通信の校正などに手をつける。62号の25日発送予定は大きく狂ってしまったようだ。

今朝、中森代表から電話。4月2日の講演会講師・清水寛さんから、お見舞いと会の延期の提案があったという。清水さんにも聴講を楽しみにしていた人々に申しわけないが延期とする。

この地震・津波を「我欲への天罰」と言った方がいたそうだが、そんな「カミの声」(自分はそう思っている?)がスンナリと言われる日本がたいへん気になるが、そんな人にかみついている暇もない。とにかくみんなで力を合わせてこの難局を乗り切りたい。

最後になりましたが、会員のみなさんがご無事でありますようにお祈りいたします。

2011年03月05日

2時から、太田直道さん(宮城教育大学)の最終講義。講義題は「哲学の七つの高地―私の哲学夢想」。

この講義のために太田さんは、A6版116ページのテキストをつくった。このテキストを使い2時間で七つの高地(「宇宙」「時間」「美」「想念」「ことば」「叡知」「愛」)を走り通し、居眠り得意の私もまぶたを閉じる隙を与えられなかった。

太田さんの最初の一文は「私が哲学を学んで幸せであったのは、目に見えないものに親しみ、現象の背後に秘められた諸原理と諸存在に思いを致し、そのような想いに心を馳せる楽しみをこの人生で味わったことであった」。学びの一つの区切りをこのように切り出す壇上の太田さんは終始輝いて見えた。

哲学の世界となかなか距離を縮め得ない私は、何度か近づく機会はあったのだがとうとう遠くにありて思うものになっている。1回目は大学の入学式での哲学者・高橋里美学長の式辞。その内容はまったく覚えていないが、話を聞いているうちに身が引き締まり大学に入ったのだという心の高揚の記憶は今も残る。学長は「内容なき思想は空虚であり、概念なき直観は盲目である」などとでもしゃべったのだったろうか。2回目は林竹二さんの教育哲学を受講。しかし、あえなく途中で脱落。林さんとはその後再会、亡くなられるまで教育実践を語り合ったが・・・。3回目は、生活科の教科書づくりを一緒した現代美術社の太田弘さんから「メルロポンティを読め」と言われ、「眼と精神」「意味と無意味」などを持たされたこと。しかし、私にはポンティを読む力はなく、教科書完成直後太田弘さんは急死。その後書棚のポンティは動くことはなかった。

その後2004年からセンターに行くようになって、太田直道さんにポンティを読んでいただくようになって、そうか太田社長が私に読ませたかったのはこのことだったのかもしれないと感じる。そして、ポンティは現在のカント読書会に発展、今年でなんと7年目になった。私は今もって哲学の世界に近づけないでいるが、太田さんの初めのことばをうらやましく思う心はもてるようになっている。

2011年03月01日

今日は県内多くの高校の卒業式。

「卒業」が耳に入ると、なぜか、中学卒業時の写真撮影の日のことが今でも浮かんでくる。もう、とうに忘れていいはずの瑣末なことなのに・・・。

その日、写真を撮ると言われていたことを思い出し、出がけに、どうせ2・3着しかなく、どれにしても変わることのない上着を決めることに悩み、死んだ親父まで思い出してうらみながら登校したのだった。なぜ、そんなつまらぬことがいつまでも体から離れないのだろう。はがしてしまいたいのにはがれない。

山びこ学校の答辞を読む機会があった。答辞を読んだ佐藤藤三郎はそのなかで、

「~私たちの骨の中しんにまでしみこんだ言葉は『いつも力を合わせて行こう』ということでした。『かげでこそこそしないで行こう』ということでした。『働くことが一番好きになろう』ということでした。『なんでも何故?と考えろ』ということでした。そして、『いつでも、もっといい方法はないか探せ』ということでした。そういう中から『山びこ学校』というのが本になりました。その本の中には、うれしいことも、かなしいことも、恥ずかしいこともたくさん書いてあります。しかし、私たちは恥ずかしいことでも、山元村が少しでもよくなるのならよいという意見でした。~」

と言っている。1951年3月23日とあるから、私の中学卒業時とまったく同じ。

私はと言えば、北上山地と北上川に囲まれた私の村にまだ輝きは見られたのに3年間を反芻することもなく卒業し、写真のことだけがいつまでもはりついているなんて・・・。藤三郎たちは「恥ずかしいことでも山元村が少しでもよくなるのならよい」と考えた。なんという違いだ。

2011年02月24日

23日朝日新聞「声欄」に尾道市の岡野幸枝さん(農業)の「数字だらけの歌の意味解けた」が載った。その内容は、1月の朝日歌壇の賞作品「六二三 八六八九八一五 五三に繋げ我ら今生く」についてだった。

私もこの作品を目にしたとき、いつになくしばらくの間見つめ考えつづけたのだった。

投書の岡野さんは、その日以降も復読して、初めの「六二三」だけがとうとうわからず、パソコンで検索して初めて沖縄戦終結日ということがわかった、というものであった。

しばらく見つめつづけた私は、なんとなく(あ、そうか)と思い、次の句に目を移し、それを何かで確かめることなくそのまま終わっていたのだった。

岡野さんは、この投書の文を「終戦65年が過ぎると平和ぼけの症状が甚だしいのだろうか。今でも基地問題で戦後を引きずっている沖縄の人たちにとって重要な日を失念していたことを、おわびしたい」と結んでいた。

確かめもしなかった私、パソコンで調べ失念を「おわびしたい」という岡野さん。私より10年も長く生きている岡野さんの年齢「84」の数字が私には特別に輝いて見えた。

2011年02月20日

18日、Yさんの“卒業授業”があった。この授業は、3月退職予定者が長い間一緒に学び合ってきた仲間に最後の授業を見てもらうというもので、もちろん本人の意思による。退職を間近にした年度末、余程の覚悟を要する。それでも、授業に生きてきたたつもりの上がりゆえに多忙を厭わず挑戦しようとする仲間はいる。Yさんもそうだ。授業後は参加した者たちで授業検討会はきちんともつ。その検討が現職にある仲間に遺すもののあることは言うまでもない。忙しさを押して取り組むわけもこの点にあると私は思っている。Yさんの授業に校内の若い先生たちも見にきていたが、話し合いには参加しなかった(できなかった?)。授業の善し悪しを問題にするのが目的でないだけにやや残念に思った。

“卒業授業”が私たちの中で始まって30年近くになるから、その間、それに関わってもいろいろなことがあった。

Wさんの授業を見せていただくことを校長に正式に頼みに行ったことがある。許しを得ることができず再度訪問したが、最後にA校長が口にしたことは、「組合に協力したと思われたくないからダメ」だった。組合とは無関係なのだがどうしてそうつなぐのか、そして、誰に思われたくないのかはわからなかった。仕方なく、私はWさんへの私的な用事をつくって後日学校を訪問、そのついでということで授業を見せてもらったことがあった。

Mさんの授業についてはこうだった。こちらの話を聞き終わったK校長は、「大学では最終講義がありますが小学校にだって最終授業があっていいですよね。みなさんのご計画でどうぞおすすめください。その時は、ぜひ私の学校の職員にも参加させてください」と。

他にも何校か同じことで学校を訪ねたことがある。校長の対応はすべて違っていた。A校長のような方にはさすが出会わなかったが、K校長のような方もいなかった。この違いは何からくるのだろうか、未だ私にはわからないことだ。

2011年02月15日

12日の朝日新聞に舞踏家天児牛大さんへのインタビュー記事が載っていた。舞踏家としての自分を話しているのだが、考えさせられる言葉で埋め尽くされていて、読んでいくうちにしぜんに背筋が伸びてくる感じだった。

そのなかから、「自分のジャンルには関わりのない物事からこそ汲むべきものがある。すべてをトータルにとらえ、自分という器にいれこんでいかないといけない」「土方巽のところには、文学、俳句、絵画、映像、音楽、彫刻ありとあらゆる芸術家がいて、酒を飲んでは激論し、それを必死に自分の創作につなげてゆく。創作に向かう人々のいろんな姿を見られたのは大きな糧になった」と・・・。

私は、現職の折り返し近く、職場を離れて3年間、教職員組合の教育文化部担当だった。現場を離れることに迷いはあったのだったが、それ以降の仕事のために無形のものをたくさん得ることができ、今もあの3年がなかったら自分の後半はどうだったのだろうと考えることがある。もちろん、多くの教師仲間と出会うことで得たものは少なくなかった。しかし、何よりも大きかったのは教師以外の職種の方々との出会いから得たものだ。それらの人々はたとえ教育を語ってもいつも私の中につくられている常識を揺さぶるものだった。そのたびに私は、自分のなかで固まっている常識を疑うことを迫られ、壊していかざるを得なかったことが何度も何度もあった。その出会いによって私の狭い教師根性の問い直しを迫られるゆえに初めはずいぶん苦しかったが、いつの間にか体にいろいろな風が吹き込むことにむしろ快感を覚えるようになっていた。

舞踏家は「集中とだらしなさ。空っぽにならないと新しいものを入れられない」とも言っていたが、教師に自分を空っぽにする場や時間はつくれるだろうか、新しいものを入れる余裕はあるだろうか・・・と元教師の私は今を心配になってくる。

2011年02月09日

私は、教職に就いて4年目に同じK郡内の中学校に移った。1学年4クラスで学年主任はSさんだった。Sさんは静かな方だったが職員室の机が隣で、同学年の社会科を分けて受け持っていたこともあり、いろんな話を聞かせてもらった。

工業学校を出たのだが、新制中学が発足したとき校長の勧誘で教師になった。ある日、生徒が土器のかけらをもってきたのだが、工業出の自分にはそれについて何も答えることができなかった。しかし、せっかく持ってきた生徒に対してこのまま「わからない」で済ましてはいけないと思い、その土器のかけらを持って東北大学の考古学研究室を訪ねて教えてもらった。同時に教師としてのこれからを考えて、しばらくの間、放課後、研究室に通いつづけたとのことだった。(当時、教師の学びはやる気さえあればそのようなこともできたということになる。)

私が出会ったときは、K郡内の遺跡調査を自分ですすめていた。後年、郡内遺跡調査の中心になって働いた。

生徒の持ってきた土器のかけらを「わからない」とそのままにしなかったSさんのことは今になっても時々思い出す。いい加減さのなくならない自分への大きな叱咤になるのだ。

私も遺跡調査に誘われて何度か一緒したことがあった。ある時は、なんと前任校の学区内にある円墳の調査だった。私は3年間もそこにいて、その円墳の存在をまったく知らなかったのだ。それはもしかすると私だけでなかったのかもしれない。

2011年02月03日

「モンスターペアレンツ」という文字がよく目に入る。今自分が現職にあれば大きな的になったかもしれない。そう言う私はたくさんの親に育てられたと今も感謝でいっぱいだ。その例として、大事にしまっている親からの手紙を紹介する。(Y・Aは私が直したもの)

授業参観に一言

朝元気に出かけた娘が11時過ぎしょんぼりして帰ってきました。私は咄嗟に「何か失敗したな…」と感じました。「もう終わりだ・・・先生に怒られてしまった。お父さんもきっといやな思いをしたよ。帰ってきたらきっと何かいわれるかもしれない・・」と不安そうな顔。

訳を聞くと、グループで文化について調べ、それぞれ順序に発表するはずだったのが、6班は一番最後で時間がなくなり、先生に手短に発表するようにと言われたので段取りしておいたことが思うように発表出来ず、とうとう先生を怒らせてしまったとのこと。

講演を聞いて帰った主人に様子を聞くと、「先生の怒るのも無理はない。全然まとまりのない発表だった」とのこと。私は「Y子には何も言わないで。すごくがっかりして帰り、二階の部屋に入ったきりだから・・」と頼みました。3人でお昼を食べてる最中、主人はやはり何にもいわないのも・・と思ったのか、「Y子・・もう少しちゃんと調べておかないとだめだよ。あの授業の前に先生は2時間も時間を与えたそうじゃないか」とちょっぴり言っただけなのに娘は涙をボロボロ流して泣いてしまいました。滅多に人に涙を見せたことのない娘なので、それっきり主人も口を噤んでしまいました。

娘の涙を見て私は感じました。先生の目からは努力した様子は見られなかったかもしれないが、勉強嫌いのこの子が、ここ数日、百科事典を出しいろいろ調べたりしたが失敗に終わり、しかも年一度の日曜参観日にそれも滅多に行ったことのない父親の前で怒られたということは、理由(自分の努力の足りないことを棚に上げて)はどうあれ涙が出るほど情なかったんじゃないかと思いました。父の日の夜に楽しく授業参観のことが親子でしゃべれる授業であってほしかったと思いました。

人間とはエゴなもので子供も親もこれがまた、自分の子供の班でなかったなら、先生の怒ったことにも笑い話としてしゃべれたかもしれません。私はその場にいたわけでもなく、また、その場の様子が分からず、何もいわれないかもしれませんが、大きな目ではなく、自分の家で感じたことを書いてみました。いつも家では嫌なことは早く忘れよう、前進、前進・・の主義なもので、娘も今日は4時過ぎ、「ただいま」の声も一段と高く、人形劇の楽しかったことを一気にしゃべりました。「よかった」・・私は本当にそう思いました。 (まだつづきますが長くなるので、以下は略します)

6月16日       A

このように本気で話し書いてくる親に私は幸せにも多く出会えた。

教室の班は便宜的に私がつくったものであり、その構成員は個々の人格をもった子どもたち。班内のB男やC男のいいかげんさを見過ごすことができず「班」を叱り、それがY子を悲しませた。「班」はその後も教室で使ったが、個と班についての意識は私の中で確実に変化した。Aさんのようにその時々を率直に話してもらうことは教師になっていくためにどんなにうれしいことか。

2011年01月27日

3月で退職するサークルの仲間Yさんの最後の授業づくりの話し合いに参加した。この連絡を受けてすぐ思い出したのは十数年前のことでありながら、なお昨日のことのようにこびりついている私の場合だ。たくさんの仲間が集まってくれたのに検討に値しないめちゃめちゃな授業に終わったのだった。子どもたちは私のために張り切ってくれるのに、私は、卒業を意識しすぎ、敷いたレールを歩ませようと懸命になってしまったのだ。卒業する時になっても、子どもたちより周りの他者への意識が強く、辞めるまで子どもの側にきちんと寄り添えない教師だったということだ。思い出すといまだに冷や汗が流れる。

こんな自分を思うとき決まってMさんの場合を思い出す。授業の途中、自分の意が通らずへそを曲げた2年生のK男が座席を離れて動き出した。参観者が大勢いる中だ。Mさんは授業を中断、K男のところに歩み寄りなだめにかかった。間もなく授業は再開。K男は何事もなかったように授業に参加して卒業授業は終わった。あのような時私だったらどうしたかと、以後よく思う。参観者がおるなかの最後の授業の中断を恐れ、K男をそのままにして授業をすすめただろう。しかし、Mさんは迷うことなくK男をなだめるほうをとった。そうしたMさんを(本当の教師だ)と私は今も思い、尊敬の念はそれまで以上に強くなった。

卒業授業は自分にとって最後の仕事であるが、子どもとの関係でいえば日常の仕事の1時間である。1時間の流れの中で、瞬時にどんな動きをするかは、まさに日常の教師のそのままの表れであろう。この日のMさんの自然な動きは忘れることができない。と言いながら、自分は、日常を超えようと意識し、無残な姿を見せてしまったのだ。これも自分の「日常」の結果であるとしか言いようがない。

Yさんの授業づくりのことには触れないでしまった。

2011年01月24日

昨日は、Kさんのお別れ会だった。私もお別れのことばを読ませていただいた。宮城の民教連の代表をKさんから引き継いだ関係もあり、Kさんとは本当に長い間の付き合いだったので、お別れに何を話すべきかいろいろ悩んだ。Kさんほど歯に衣着せぬしゃべりをする人は少ないのでぜひ話したいと思ったが、それを知ってもらうには限られた言葉ではたいへん難しく、残念ながらほとんど外した。それにしても、Kさんのような人が自分の周りからどんどん姿を消していく。と言いながら自分は、いろんな場で言うべきかどうかで悩んでしまうことがあり、そんな自分がしょっちゅう嫌になる。

60年代の初めまで、木造の教育会館は、教育文化運動に熱心な現場の仲間・学者・市民のたまり場だった。その場はいつも火花を散らすような議論がつづき、Kさんもその中にいた。若い私は火の粉を浴びないように少し離れて眺めていたが、そうしているだけでも、自分が豊かになっていくような気がしたのだった。

ずいぶん後のことになるが、Kさんと一緒の合宿研究会に参加したことがあった。会の後に、Kさんや私について、「若い人が、レポートについてあんなに言われるのでは会に出たくないと言っている」と言われたことがあった。その後再びその会をもつことはなかった。

いろんなことを斟酌しながら生きることはたいへん疲れる。自分はできないだけに、Kさんの貫いた生き方を本当にうらやましいと思う。

2011年01月17日

恒例のセンター新春講演会は、いくつかの事情が重なり2月5日になった。講演は三上満さんにお願いし、演題は「わが心の宮沢賢治」。

三上さんの東京大学教育学部の卒論が宮沢賢治だったというからまず驚く。しかも三上さんは中学校社会科教師生活につづき労働組合の要職に長年ありながら宮沢賢治を少しも体から離さなかったのだからこれまた驚く。

2002年に発刊した「明日への銀河鉄道―わが心の宮沢賢治」のまえがきで「少年の頃、宮沢賢治という人と出会ってから、ほぼ55年という歳月が流れた。その間に賢治に心酔し、とりこになり、やがて離れ、反発し、そしてふたたび新たな賢治と出会い、生涯の友となるという、ふしぎな、しかし賢治を愛する人たちによくある心の旅を私もたどってきた。」と三上さんは書いている。

こんなに生涯離れられないほど好きになるということはどういうことなのか。玄侑宗久の書く「宮沢賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる澱のなかに入っていくようなものかもしれない」が目に入ったりもし、三上さんの賢治ワールドを知りたく今からワクワクしている。この歳になってと笑われそうだが・・・。

2011年01月11日

前回、宮城民教連の冬の学習会にふれて「ひとり一人に少しでもよい仕事をしたいという気迫は?」と書いた後で、あれは間違いではなかったかと気づいた。自分が萎えてしまって周りの熱気を感じなくなった故なのだと思い当たり、大いに恥ずかしくなった。

私が先輩に連れられ初参加した白萩荘での集会は今の半数ぐらいの参加者だったが、それらの人々のかもしだす雰囲気はふだん学校で感じるものとは大違い、私は目や耳にする一つひとつに終始舞い上がり、その後そちこちをのぞき歩くようになったのだが、知らぬ間に自分の体からその勢いが消え去っていたのだ。

3連休の1日目会ったYさんから、仙台の私学にいるフィンランドの高校生の話を聞いた。中学で日本語に興味をもって勉強し、とうとうその日本に来ているとのこと。フィンランドは私たちの間では特に「学力」の高さで話題になるが、Yさんの話す高校生の話を聞きながら、学力で取り上げているフィンランドの教育は根っこの部分をはずして論じ合っているのではないかと思った。そのうちYさんにその高校生のことを詳しく書いてもらい、考え合ってみたい。

2011年01月07日

5日・6日と宮城民教連の冬の学習会があったので、今年のセンターは今日からの事初め。

冬の学習会は56回目。この学習会がスタートした時、既に教職員組合の教育研究集会は始まっていたが、参加者が自分の学びのために手弁当で集まり出して、それが休むことなく56回もつづいている。

私の参加を振り返っても、仙台白萩荘・鳴子温泉・仙台西花苑・松島大観荘と会場が転々とし、現在の仙台茂庭荘に落ち着き、しばらくつづいている。集会日は1月5日6日と決めてあるので、現役時はいつもこの学習会が終わって初めて新しい年という感じだった。

すべてを参加者の会費で運営する会なので安く済むことが第一条件となる。特別安い宿泊場所を見つけたと思って喜んだ仙台西花苑が夜になって全館停電。部屋まで雪が吹き込み寒さを堪えて一晩過ごしたことから、「少しは出し前が増えても暖かい所で」という声が出て安い所という条件はその後緩やかになったのだった。

今も身銭を切っての参加はつづくが、全体の雰囲気はずいぶん違ってきたように思う。それは決して悪いことではない。でも、ひとり一人に少しでもよい仕事をしたいのだという気迫はかつてとはどうだろうか・・・。

いずれにしろ、この2日間の集会への参加は、センターの年明けのために充分な助走となる。

今年もよろしくお願いいたします。