2011年11月

2011年11月29日

「ショック・ドクトリン」を読み始めた。副題は「惨事便乗型資本主義の正体を暴く」、オビには「3・11以後の日本は確実に次の標的になる」とある。

著者 ナオミ・クラインは、長い序文のなかで、惨事の一つとしてニューオーリンズのハリケーンを取り上げて、

州選出の共和党下院議員リチャード・ベーカーがロビイストたちに向けて語った言葉は、「これでニューオーリンズの低所得者用公営住宅がきれいさっぱり一掃できた。われわれの力ではとうてい無理だった。これぞ神の御業だ」と。

また、ニューオーリンズ屈指の不動産開発業者ジョセフ・カニザーロも、これとよく似た意見を述べていた。「私が思うに、今なら一から着手できる白紙状態にある。このまっさらな状態は、またとないチャンスをもたらしてくれている」と。

その週から議会には、このビック・チャンスを逃すまいと企業ロビイストたちが群がり始めていた。彼らロビイストたちが州議会を通そうとしていたのが、減税、規制緩和、低賃金労働力、そして、より安全でコンパクトな都市の構想だった。要するに公営住宅の再建計画を潰してマンションを建設しようという案だ。・・・

「ショック・ドクトリン」を読みながら、私の頭の中から3・11がいっときも離れない。前述オビの言葉が単なる売らんかなの言葉だとして見過ごすわけにはいかいのだ。今宮城で論議されている「漁業特区問題」での企業参入などは、ニューオリーンズとどこが違うだろう。

著者は、別ページで、100以上あった公立学校が一桁になり、民間のチャータースクールが一挙に増えた例も書いていた。

まだ読み始めたばかりだが、ニューオリーンズのハリケーン惨事に便乗した冷血な事実が世界各地の惨事に見られることを少しでも早く少しでも多くの人に知って欲しいと思い、日記らしからぬ日記を書いてしまった。

2011年11月23日

夕方のニュースで、岩手高田の酒「雪っこ」が売り出されたことが取り上げられていた。

「雪っこ」は、必ず宮崎典男さんを思い出させる。宮崎典男さんといってももはや知る人は少なくなっているだろうが、なんとかかとかこの仕事をつづけられた元教師の私にとっては欠くことのできない“大師匠”である。

若いときから宮崎さんに連れられてあっちこっちと学びの場に足を運んだ。宮崎さんとの出会いがなかったらと自分のこれまでをたどってみると、まちがいなく情けない失格教師で終わりになっただろう。

そんな自分を物差しにするから、教師の集まりの場の様子がほとんど耳にはいりにくくなってきている今の現場のことが、おせっかいな言い方になるがたいへん気になる。

宮崎さんが存命の時、私がある雑誌に「ごんぎつね」の実践記録を3回に分けて載せたことがあった。その記録を読んだ宮崎さんから、そのたびに克明な感想と「自分ならこうする」という詳細なプランを書いて送っていただいたことがあった。今も私にとっての宝の一つとして大事にとってある。その時は、自分も卒業したら、こういう応援をしたいものだと思ったが、そう容易にできるものでないことを知ると、宮崎さんに出会えた自分を幸せ者と思う。

ところで高田の「雪っこ」のことだが、秋口から春先にかけて先生と一緒に出かけた学習会の帰りの電車に乗る前に決まって仕入れるのが「雪っこ」だったのだ。それも新幹線になってからはうまさの記憶はうすいのだが、米坂線とか東北本線とかで向かい合わせの座席で飲んだ「雪っこ」はそれぞれの学習会の内容と一緒に体にしみついている。

「雪っこ」がまた売り出されたことはたいへん喜ばしい。でも、学習会で一緒する人もなく、のんびりと車中で飲んでしゃべり合える相手のいない今は何とも寂しい。もちろん、車中でなくてもいいのだ。

2011年11月15日

教育学者・大田堯さんの生きている姿を通して、生きること・学ぶことの意味を問うドキュメンタリー映画「かすかな光へ」の仙台上映がやっと決まった。

11日に実行委員会をもち、12月17日(土)上映を決定。会場はここ教育会館フォレストホール。93歳の大田さんに仙台においでいただき、午後2回上映の間にお話をしていただくことにした。

実行委員会に参加する団体・個人はいろいろで、大田さんの生き方をそのまま語っていると言えそうだ。子どもを守る会・保育団体連絡協議会・親子劇場と子どもに関わる団体も広い。子どもに関わる人たちだけでなく、社会教育に関わる人たちの参加もある。それに、中小企業家同友会も参加。大田さんは、後年、全国にあるこの同友会組織をかけめぐってきているのだ。このことが大田さんの生きること学ぶことと深く結びつく。同友会に上映会の企画をお話しすると積極的に参加の意思をいただけた。

上映会の組織過程を通してだけでも、大田堯という教育学者の生き方がビンビンと伝わってくる感じだ。

映画は谷川俊太郎さんの詩で始まる。

~ 私たちは知りたがる動物だ/たとえ理由は何ひとつなくても/何の役に立たなくても知りたがり/どこまでも闇を手探りし問いつづけ/かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える ~

音楽は林光さん。ナレーションは山根基世さん。

2011年11月09日

5日・6日と「2011 みやぎ 教育のつどい」に参加した。退職後、時が経てば経つほど、教育研究集会参加は気が重い。何しろ、学校現場の変わりようは耳を疑うサマだから、そこで話をしても、(そんなこと今はとてもとても・・)と頭上をかすめもしないのではないかと考えると参加して話すのが怖いのだ。

さて、2日間の集会は、あっという間に終わった。1日目が午前だけだったせいもあるかもしれないが、提出されたレポートのすべてが私にとって興味を引くものであったことが大きい。

1日目は、「うたを通して震災後の自分を見つめる指導の試み」(中学校のSさん)と「被災地からやってきたK君」(小学校のYさん)の2本。

2日目は、「被災地へ届け! ぼくたちのエール」(Kさん)ほか4本、すべて小学校。

参加者が少ないことは毎年気になるが、提出レポートは、この困難な場にありながらどれも子どもの側に立っての創意に満ちたものであった。

Kさんは、3・11後のまだ落ち着かないなかでの始業式直後の授業参観日のために、自分で選んだ目標となる文字を習字で書き、文字にこめた思いを文で添えさせたことで、新しい6年生の出発し、その後、被災地へのエールの取り組みを学年から全校に広げていく。

これら学校の取り組みと並行してKさんは、組合の支部・地区会でとその他に個人でと被災地ボランティアに10回ほど行っている。

Kさん自身の被災地でのボランティア活動と学校での子どもたちとの実践が見事にむすびついたことはまちがいない。

指導主事訪問時の指導案を作ったので見て欲しいという教師1年目のMさんのレポートもあった。6ページにわたる指導案を見ながら、自分の初任時代を思い出し、そのていねいな作りに内心驚くと同時にその苦労を思いやった。こうやって教師が教師になっていくのだと思いながら、このような場にもちこんだ素直さにMさんのこれからへの期待をふくらませた。

ひとつひとつ感想を書くことはできないが、出されたレポートに私はまだまだ学校に希望はあると思わせられた。それだけに、もっともっと多くの人と一緒に希望を感じたかったという思いが強い。

2011年11月01日

28日、31日とH小・F中へお話を聞きに行ってきた。われわれのような申し込みは少なくないと思うし、どの学校も何かと忙しいに違いないのに、これまでの学校同様両校とも快く対応していただき、貴重なお話を聞かせていただいた。

お話を伺って共通して感じたことは、あの日、そしてあの日からしばらくの間、どこの学校でも、あの大震災の中で見事に創造的に動いていたということだった。言葉を換えれば、それぞれ、これ以上の動きをだれが出来得たろうかと思ったのだ。

もしかすると、学校が、教育委員会を初めとする行政の指示やマニュアルなしに独自の判断で行動したということは、ここしばらく、どの学校にもなかったことではないか。瞬時の判断を強いられる場面で連絡手段が絶たれるという最悪の場がそうさせたわけだが。

この動きが、これまでの学校のあり方を振り返り、3・11後の教育を考えるうえでの大きな教訓になるだろうことを忘れてはならないとも思った。

しかも、お話を聞きながら、これも一様に「教師集団」が浮かんできた。ことばが過ぎるかもしれないが、通常、学校のいろいろな話を聞いても、なかなか「教師集団」を感じることはない。ゆえに、聞いている自分までが誇らしくなってくるのだった。

余談になるが、F中の仮設校舎で話を聞きながら、私の遠い中学生時代が思いだされた。私の中学1年生は戦後3年目の1948年だった。小学校の空き部屋を借り、不足の教室は応急のバラックだった。教室には黒板以外何一つなかったが、先生たちは生き生きと動いていた。私たちも生きていた。教科書すらちゃんとしていなかったのに。

3・11についてのそれぞれの学校のお話を聞くことにより、学校とは何か、そこで営まれる教育とは何かをこれまでになく考えさせられている。まだまだお願いしている学校があるので、私の考えはますます広められ深い問いかけを迫られそうだ。