2011年10月

2011年10月25日

古本屋で求めた「昭和青春読書私史」を読んだ。著者は安田武。日本戦没学生記念会(わだつみ会)の再建に尽力し常任理事を務めた。「思想の科学」会長でもあった。

前記「私史」は、中学1年のとき読んだ「モンテ・クリスト伯」に本の世界に引きずり込まれていった本との出会いの青春の記。

本の紹介は別の機会にゆずるとして、数十年前に読み、今もそのときのまま体に残る安田武の新聞のエッセーのことを述べる。

正確なタイトルは覚えていないが、おばあちゃんに教えられたことを3つ紹介していた。1つは、夜の客が帰るとき、外の靴音が聞こえている間は外灯を消してはならない。2つめは、電話を受けた場合、相手の人が受話器を置く前に自分が置いてはいけない(もちろん黒電話時代)。3つめは、ある日、おじいちゃんと一緒の汽車(3等車まであった頃)に乗ることになったとき、「おじいちゃんは1等車に乗るが、あなたはおじいちゃんと違うのだから3等車に乗ること。おそらくおじいちゃんは『こっちに来るように』と言ってくるだろうが決して行ってはいけません」と言われた。案の定、おじいちゃんは秘書を呼びに来させたががんばって行かなかったら、おじいちゃんの方が3等車に来て、一緒に目的地まで行った。

この3つの話である。私はなぜ今も覚えているか、理由がある。新聞で読んで以降、毎年のように年度初めの学級懇談で紹介したからだ。

でも、いつの頃からか記憶は定かでないが、年々、話が、親の頭の上をかすめて消えていくように感じてきはじめて、いつの間にか、定番の話をはずしてしまい、その後はまったく話すことはなくなった。

私の中では、安田の書いたどの文も、このおばあちゃんの思い出の話を語るエッセーを超えるものはない。今度の「私史」もおもしろかったが、やはり超えることはなかった。

2011年10月18日

先日の天野祐吉さんのお話を聴いた後、「隠居大学」(天野祐吉編)を読んでいる。私だって歳に不足はない。年齢以外の入学資格はあるのかどうかが読み始めから気にしていること。

自称学長・天野さんの対談の相手をするのは、横尾忠則・外山滋比古・赤瀬川原平さんたち6人。読み進むにしたがって、この大学は、とんでもない難関大学であり、歳を重ねたぐらいではとうてい入学は許されないことがわかってくる。

しかも、入学の可否を決めるのはひとえに、その人間の生き方。

私の得た結論は、入学を考える前に、横尾さんたち現「隠居大学」生たちの生き方を学び、己の生き方を創り出すことであり、それも志半ばでまずは終わりになるだろうが、自分自身のためには入学を目指して生きてみたことに大いに意味ありというところであろう。

「第1の人生は学校やら会社やらに仲間がたくさんいますから、みんなでやればこわくないというふうに、あまり考えなくても、無責任でもなんとかなるところがありますね。第2の人生になると、それまでの仲間とは生き方もバラけてきますし、なにより自分が大将です。考えることはとても大切になってくると思います。考えることはね、空想や夢のようなことでも、どんなことでもいいんです。考える力というと、おおまかに想像力、判断力、選択力がありますよね。たとえば選挙なんて、選択力を発揮するいい機会じゃないですか。・・・・」
としゃべる外山さん。そのうえで、隠居に必要なユーモアのレッスンを話す。

どなたの話も、読む私を見透かされているように、自分の不足なところをチクリチクリと刺してくる。隠居大学の存在を知ってしまっては、これまでの自分でのんびりなどと言っておれなくなった。天野さんも、たいへんな仕掛け人である。

今後、隠居候補がどんどん増えていくことを考えるとひとりひとりが自分の生き方をもてれば、国の未来も見えてくるかも・・・。

2011年10月13日

札幌在住のアイヌ民芸の小川基・志保さんが昼近くに来室された。明日の東北学院大学創立125周年記念行事「民族歌舞の保存と伝承」に招かれ、前日仙台に着くのでセンターを訪ねたいというメールはいただいていた。去年の8月、センター主催の夏の公開講座「アイヌ文化に学ぶ」でおいでいただいて以来。このときは、お母さんの早苗さんもご一緒だった。3・11については早々と見舞いのメールをいただき、その後も何度もメールをいただいていた。

お二人からは、基さんの仕事場を訪れた人々がつくった切り絵と基さん自身の作品のファイルをいただいた。ファイルを開くと、基さんの切り絵に「新しい日本・新しい時代の始まりですね。美しい未来を創っていきましょう。いつもつながっています。」の文で始まる文が添えてあった。その他の人々の切り絵も、すべて被災地・者に向けてつくられ、「強く生きていきましょう! 僕達も一緒です。誠士朗」などの文が多くに添えられていた。それをファイルにまとめて持ってきてくださったのだ。

ていねいな刺繍の施された早苗さんからの小袋も志保さんからいただいた。

午後リハーサルもあるということで、東北学院の案内者の時計に合わせての歓談の時間は残念ながら長くはなかった。

しかし、その短い時間での2人の言葉や仕草から、再会を心から喜んでいることがあふれるほど伝わってきた。わざわざ訪ねていただき1年ぶりに会った私もうれしい。しかも、再会を心の底から喜んでもらえていることが体にビンビンと伝わってくることがなんともうれしい。それなのに、そのうれしさを言葉でも身振りでも二人に伝えきれない。伝えられたらお二人はどんなに喜ぶだろうと思いながら表現できない自分がとてももどかしく、情けなかった。

部屋を出る二人と握り合う手に力をこめたことで少し気が楽になる。

明日の公演の成功を祈る。

2011年10月08日

8月から、研究センターの学習会として「戦後教育実践書を読む会」を隔月シリーズで組んだ。今日はその第2回目、「新しい綴方教室」(国分一太郎)を読む。この案内人は私が希望した。自分のなかに国分さんのことをぜひ知ってほしいという思いが強くあり、つい「私が」と言ってしまったのだ。

それが今日終わって、ホッとした。このことが気になってのことではなかったと思う(とすればあまりに情けない)が、昨夜は、これまで1度も記憶にない腹痛に襲われて苦しんだ。会に来たKさんに「疲れているようだね」と言われた。なんと会が終わったときには、昨夜のことは嘘のように体がすっきりしていた。

「新しい綴方教室」を読むことを通して、どうしたら私の尊敬する国分一太郎を参加者に少しでも近づけたいと結構考えつづけたつもりだ。その思いの強さに参加者は大いに辟易したことだろう。

教育研究は時とともにすすんでいるのだろうと思うのだが、現職時代の私自身を振り返っても、現在の教育の仕事を見聞きしても、残された過去の仕事にはとうてい及ばないように感じるのはどうしてだろうか。及ばないのは国分さんにだけではない。宮城で私が教えを受けた方だけでも鈴木道太さん・大村栄さん・宮崎典男さん・・・と十指に余る。

少しでもよい仕事を目指すために、その方々の仕事と私たちの何が違うのかを詳しく知る必要があるのではなかろうか。

私の場合など、子ども相手のためか、ともすると「子どもの側に立つ」と口では言いながらいつの間にか忘れて授業では「教え屋」になっていることの繰り返しだった。子どもは、たいていの場合黙ってはいたが・・。

話がそれてしまった。この日のために国分さんの著書を相当数再読することができた。

どれだけの案内役を果たしたか聞くも怖ろしいが、「新しい綴方教室」の案内人を希望した私が一番得をしたことだけは間違いなく確かだ。

2011年10月03日

1日に、天野祐吉さんの講演会「『ことば』は届いているか」があった。若い人の参加も目立った。29人の方に感想文を寄せていただいたが、うち6人は10代であった。私はいろいろな会に関わることが多いが、きわめて稀と言える。

そのなかの1人の感想のなかに次のようなことが書かれていた。

「~ 昔あったこと、できたことを、なぜ今できないか、普通の暮らしとは・・・。疑問に思うことがたくさんでてきて、若い自分がしなければいけないこと、正しいことを判断していく力をつけなきゃ ~」。

この感想を読んで私はたいへんうれしくなった。

話を聴くうちに、疑問に思うことが自分の中でどんどんふくらんでいったのだ。これこそ学びであり、若いということはこういうことなのだと、大いにうらやましく思った。一方、若くてもどんな話を聴いても疑問のわかない人が圧倒的に多いようにも思う。ゆえに、この方は本当の若さをまだ保てている貴重な方と言えるかもしれない。

天野さんは、おそらく、何かを知ってもらうことを願って話をなさったわけではなく、このような聞き手を願ってのお話だったに違いない。お知らせしたらきっと喜ばれるだろう。

私がかつて、生活科の教科書作りに参加し、当時の文部省に検定結果を聞きに行ったとき、教科書調査官に、たとえば、「たろうは、まいにち がっこうへ いく。/はなこも、まいにち がっこうへ いく。/ころと みみは、がっこうへ いかない。」などの文について、「あなたたちの教科書は、当たり前のことを書いているところが多すぎる」と言われたことがあり、私は内心(こりゃあ、ダメだ。この違いはとても埋めることはできない)と思ったのだった。上記の感想を書いた若い人にあの教科書を読んでもらったら、なんと言うだろうなあと昔のことまで思いだしてしまった。