2011年7月

2011年07月31日

企画してからやや時をおいてしまったが、やっと「講座・戦後教育実践書を読む」を8月4日からスタートさせる。1回目は「山びこ学校」。

教育の歴史を見ると、どうしてこの時期にこんなに優れた教育実践が競い合うように本になり、多くの教師の仕事を刺激し励ましたのか。なかでも50年代は特別輝き、その後いつの間にか、その輝きは薄れていく。

私は50年代の終わりに教師生活を始めるので、まだ、灯は消えていなかったし、身の周りにも、その風を感じることはでき、半世紀前を振り返り幸せだったと思っている。

過去の遺産となり、今や書名すらも挙げられることがほとんどなくなったこれらを読み合ってみたいというのが今回の企画だ。

参加者が一緒にただただ読み合えればいいと思っている。読み合うことから、それぞれの教室に微風ぐらいは起こすことになるかもしれないと願って・・・。

まず51年の2月に「山芋」が、3月に「山びこ学校」が多くの教師を驚かせる。10月には「魂あいふれて」が百合出版から刊行、全国の24人の実践家の仕事が紹介される。この本の第1走者は無着成恭だが、無着さんはその自画像のなかで、「師範の3年の時はてってい的に学校をさぼり、山形新聞の須藤克三先生のところへ足繁くかよった。須藤先生は、よく本屋にひっぱって行き、本棚に並んでいる著者を片っぱしから説明してくれた。須藤先生は、なによりも、生きた人間、生きた社会を見る力をあたえてくれた。(中略)教師になって丸1年目の24年に須藤先生が国分一太郎先生を紹介してくれた。国分先生は何一つ教えてくれなかったが、たった一つ、人間とはこのように生きなければならない、ということを教えてくれた。」と書いている。

本との出合い、人との出会い。実践は教師と子どもとの出会いの産物であるが、そのために、人と人との出会いが大きな役割をはたしているのだと無着さんの文で感じる。もちろん、必要とする人の前にしかヒトは現れないのだろうが。

知らないから参加して一緒に読んでみようという現場の参加者のひとりでも多いことを願っている。

2011年07月25日

今日は25日。例年なら夏休みに入っているはずなのに、どこを歩いても子どもの姿に(夏休みにはいったんだ!)と思うことがなく、声も聞こえない。3・11のせいなのだろうか。学校によって休みへの入りが違うと聞くが、特別な年とは言え、短いバラバラな夏になることは子どもたちにとって、なんと悲しいことだろう。

在職中、有志で毎週1回の輪読会をもったことがあった。そのとき読んだ本の1冊に「もうひとつの教育」(村井実著)がある。その中に著者がペスタロッチの終焉の地スイスのブルックの町を訪ねた時のことが書いてあった。町に入ると、ペスタロッチの生家と記された家の石坂だけでなく、辻々の泉の中に立つ少女の像も、みな色とりどりのバラの花飾りで豊かに蔽われた。いったい何事があったのかと尋ねると、「あれは、一昨日と昨日と、子どもたちのためのお祭りがあったのです。いよいよ学校が夏の休みに入りますので、例年、こうして2日間、町じゅうのこどもたちにお祝いをしてあげるのです」との答えが返ってきたという。(いい話だなあ)と思い、今でも忘れることが出来ない。

著者は、「どうもスイスの子どもたちは、日本の子どもたちと比べて、町でも学校でも家庭でも、何かはるかに大きな幸せに恵まれているのではないかと思えるではありませんか」と、この話を結んでいる。

そんなことは前時代的、今はそんな時代じゃないよと笑われるのかもしれない。ましてや、「これが大きな幸せ?」と一笑にふされるのかもしれない。

でも、子どもにとっては、ひと夏ひと夏が大きな意味をもっていて、それが人間としての成長に欠かせない時間と私は思っている。それは、夏休みを終えて登校したときの子どもたちのいちだんとたくましくなっている姿が今でもたくさん思い出せるからだ。

私に子どもたちが夏休みの様子を見せないのはなぜなのか。もし、言葉だけの夏休みでしかないとすれば、夏休み後の子どもたちも私が過去に出会った子どもたちにはなっていないのではないだろうか。それを埋め合わせる場はどこにもないように思う。

こんなときだからこそ夏休みを子どもと同じ目線にたって子どもたち自身のものにしてあげたいな。

2011年07月18日

朝日新聞にシリーズでつづいている「いま子どもたちは」の「きわめる」が10回で終わった。(なかなかおもしろい子どもがいるもんだ)と毎日驚きながら読んだ。

1回目は涼太郎君、10歳。「『無限+1も無限。なぜと思いませんか』と目を輝かし、『とけた瞬間の頭がすっきりする感覚が一番好き』と言うのだが、学校の話をすると、ちょっとだけ表情を曇らせる。かつて先生に、「なぜ算数はできるのに体育や図工はがんばらないの」と叱られた傷が心の隅に残っている。」という。

(オレにもそんな叱り方をした記憶があるなあ)と昔を思い出す。今なら絶対そんな叱り方をしない自信があるのだが。

このこと1つとっても、センセイという職業はとても危うい仕事だと思う。普通に考えても、誰にも得手不得手があるはず。わかっていながら、「どうしてみんな頑張らないの」と言ってしまう。気をつけているつもりだが、今になるも簡単に「がんばれ」と言ってしまう自分にドキッとすることがある。

学校は「きわめる」に登場した涼太郎君たちとどう向き合えばいいのだろうか。学校は、厚い鋳型をもってまちかまえ、そこに無理やり押し込めるのが仕事だと思ってしまうから、子どもはたまらない。今の受験体制・学力向上至上主義のなかで学校は鋳型を捨てることができないのも現実だ。なにしろ教育行政だけでなく、「学力」至上の保護者の期待を一身に背負わされているのだから。家庭がおおらかに見守らないと、涼太郎君たちはいつの間にか「きわめる」を失ってしまうかもしれない。学校とは・・、教師のしごととは・・。

こんな時いつも思い出すのは、教え子の病について話し合った時、「あなたに『心身ともに健康だ』なんて思われ見つづけられたYちゃんはなんと不幸だったのでしょう。小中学生ぐらいで心身ともに健康ということがありますか」と、若い医者に叱られたことだ。

2011年07月13日

私たち研究センターが東北大学教育学部の有志(院生も入る)と「震災と教育」研究会を立ち上げたことで、急に忙しくなった感じだ。この“つぶやき”の間が空くようになったのも、言いわけをすればそれが理由のひとつだ(でも、こんな言いわけはいけないと思っている)。

11日には昼に石巻の学校を訪ね、夜は、東松島の震災を語る会に参加した。センターとしては7月2日に語り合う会をもったが、東松島では、2日に聞くことのできなかった話が聞けた。

教師仲間は、学校を地域を取り戻すために懸命になっているのだから、こちらから足繁く話を聞きに出向くことなしに「震災と教育」を広く深く考えることはできないだろうし、長い時間を覚悟しなければならないと思っている。

今日は、東北大で打ち合わせをした。これまでの倍以上の人が集まり、あわてて椅子が運び込まれた。同じような思いをもつ人たちがここにもこんなにいると知るだけで心が弾んでくる。

今、「津波と原発」(佐野真一著)を読んでいる。陸前高田に住む在野の津波研究家が、「今回の大震災から一番学ばなければならない教訓は」との佐野の問いに、「田老の防潮堤は何の役にもたたなかった。それが今回の災害の最大の教訓だ。ハードには限界がある。ソフト面で一番大切なのは教育です」と答えている。

まだ4カ月しか経っていないからとはいえ、「一番大切なのは教育」という考えでの動きを国にも県にも市町村にも私は少しも感じない。そのままであることを黙視することは私たちの無責任になるのでいろいろな形で言葉にしていかなければならないと思っている。

2011年07月06日

2日の「震災体験から 地域・学校・子どもたちを語り合う会」は終わった。

この日センターに来る前、血圧の薬をもらいに医者に行った。血圧を測り終えた医者は「いつもより上がっていますね」と言う。私はすぐ「覚えがあります」と応えて外に出た。

2日の集会がどうなるか、ここしばらく頭から離れなかったのだ。

半月前に発行した「震災特集」の通信は思うように作れなかった。それは事務局会で出された危惧が現実のものになったと言えるし、それぞれのもつ被災の落差の違いが「震災」のイメージをつくり自分にブレーキをかけていることにも気づいた。

その通信に現れた問題はそのまま2日の集会の参加の仕方にもあてはまるだろう。とすれば、「みんなで語り合いませんか」と呼びかけても、惨憺たる結果に終わるのではないかという不安が日を追うごとに膨らんでいたのだ。

2日、5人の話題提供者の話が終わって休憩に入った時、私の血圧は正常にもどっていた。心配は少なくとも5人の話の内容によって払拭されたのだ。その後も集会は発言者が切れることなくつづき、4時半終了予定が5時をまわった。

名簿で見る限り、県外からは、北海道1人・兵庫3人・愛知1人・東京11人・福島1人の参加者があり、全体で約100名だった。

西宮からの方のお話も恵庭からの方のお話も、東北の震災に真向かい本気で考えてくださっていて、宮城の参加者にとってどんなに大きな励ましになったかしれない。

時間の制約で、話せないで終わった参加者も多かった。集会後、これから私たち研究センターが取り組むべきことを考え始めているが、たくさんの仲間がまだまだ厳しい状態にある。それでもみんなで語り合うことは辛くてもこれからも大事にしたいと思う。