2011年5月

2011年05月28日

テレビ・新聞の毎日のトップニュースは「フクシマ原発」になって久しい。その間、この道のセンモンカと称される人たちが入れ替わり立ち替わり何人出てきたことか。その日が何日続いても、私の中のフクシマはあい変らず視界ゼロである。私のような者にも向うが見えるようにどなたがしてくれるのか・・・。

政治家の動きや国会審議の様子も知らされるが、これまた、報道されるセイジカの論議の内容には期待されるフクシマやその他の被災地のこれからがまったく出てこないと言っていい。それどころか、報じられるのは、今をそっちのけにして小さい子にも笑われそうな永田町だけのミニクイミニクイ争いだけ。せめてしばらくは当面の課題にひとつになってかかれぬものか。報じる方も、イヌモクワナイものを見せるのはやめてほしい。新聞もテレビも、「国会の動き ― 今日も同じでした」だけで十分だ。

じゃ、だれがどうするか。孟子によれば(私の読みまちがいでなければ)、「人に治められる者は人を食(やし)ない、人を治めるものは人に食(やし)なわる」のが政治だと言う。

私には孟子の言葉は大いなる皮肉に響くが、永田町の住人は孟子を素直に信じこんでいるらしい。困ったものだ。しかし、冷静に考えれば、彼らをヤシナウようにしたのは私たち一人ひとりと言うこともできる。とすれば、今さら見たくもない聞きたくもないと言ってすますわけにもいかなさそう。じゃあ、どうすれば・・・。

加藤典洋さんが、「一冊の本」5月号の巻頭随筆でフクシマにふれた文を次のように結んでいる。

「すべて自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、いわゆる正規の思想、専門家のやり方をチェックするには、こうしたアマチュアの関心、非正規の思考態度以外にはない」と。

私は素直に納得だ。そうだ、いろんな損得勘定で発する言葉や動きよりも、アマチュアのもつ五感をフル動員したら、向うが見え、前進できるのではないか。そうなったとき、センモンカもセイジカも少しはあわて感じるかもしれない。それは、国だけに言えることだけではなく、県にも市町村にも通じると考えたい。(へんに力んでしまった自分が少々気恥ずかしい)。

2011年05月22日

石巻に「あすみの会」という教師の学びのサークルがあることを知る人は多くないと思う。もちろん私の知る限りになるのだが、県内の教師の地域サークルとしての動きにもっとも興味をもち期待しているサークルだ。

雑誌「カマラード」22号が「サークル訪問記」として「明日見の会を訪ねて」を載せている。この号は1998年1月刊行になるので、今から13年前になる。

この取材のためにサークルの例会をのぞいた加藤修二さんは、「若いって、いい。裸の自分を出せるのだから」「集まった仲間のだれもがレポートに真摯にむきあっている。羨ましいなあ」「いただいた『あすみの会通信』はなんと120号!」などと書いていた。

その「あすみの会」のひとり、山口さんからいただいた今回の「震災特集」通信原稿は、

「~石巻ではこのような状況の中でも、『あすみの会』という学び合いのサークルを続けています。それは、津波で犠牲になった佐々木祐一先生(大川小)が一番大切にしていたものであり、私たちに残してくれたものだからです。そして、佐々木孝先生(大川小)と共に学び合ったサークルだからです。大きな悲しみを背負いながらも、『あすみの会』の仲間は、確かな歩みを進めています。」

と結ばれていた。無念にも核になる人を震災で失っても、遺された仲間が「確かな歩みを進めています」と言い切れるグループなのだ、「あすみの会」は・・。

お礼のメールを送ったら、山口さんから次のようなメールが返ってきた。

私たちは地域サークルをつづけていきます。

地域の学校を地域で守り、育てていくためにも若い教師が集えるようなサークル活動を目指していきます。

石巻の仲間は前を向いて歩きだしています。

私はたいへんうれしかった。この震災特集を組まなかったら、山口さんからこのような力強いメールをいただけることはなかったわけだし、このような教師・山口さんのいることをも知ることがなかったかもしれないのだから。

「あすみの会」はどんな苦境に立っても明日を見ることから一歩も引くことはないのだ。なんとなく毎日をおくっている私が、震災の残したたくさんの傷と向き合って奮闘している「あすみの会」から受けた刺激は言葉に容易に表せぬ大きさだ。

2011年05月16日

今、迷いでグラグラする気持ちを抑えながら2つの企画を進めている。

1つは、6月発行のセンター通信を多くの会員の原稿で「震災特集」を組むことであり、もう1つは、7月2日に、「震災体験から地域・学校・子どもたちのことを語り合う」集いをもつことである。

「あの日のこと」「あの日からのこと」を会員みんなで文字にする。人それぞれの3・11の辛い事実、3・11の事実に胸を突き刺された想いを誰もがもつわけだが、この時研究センター会員であったということで一緒の誌面にその3・11を書き残し、互いに読み合うことで自分を人間を問い直すことはできないか。文字は残る。何度何度も読み返せるのではないか、と。

「あの日のこと」「あの日からのこと」をみんなで語り合う。それぞれの人のもつ事実を自分の声で話す。自分の耳で直接聞く。一堂に会して、お互いに姿を見せあいながら話し、聞く。その語られる事実や想いは、その声の響き、その人の姿は、聞く人一人ひとりの事実とつながりあいながら、それぞれに明日への何かを生むのではないか・・・。

津波で学校を使えなくなったYさんは、「あの時の私たちのとった行動はどうだったのか、毎日考えつづけています」と電話で話していたが、誰もが精一杯の動きをし、それでもなお、誰もが「あれでよかったのか」と自問しているということを互いに知ったら、少しは気はゆるくなりはしないか。

そんな想いをいろいろ巡らし、「通信特集」や「集まり」をつくることなら私たちの研究センターでもできる。そんな思いからの2つの企画である。

にもかかわらず、(今、あの日のことを書いたり語ったりできるか、なんて無神経なことを仕組むのか)と思われているのではないかという心配は企画した時から今も少しも消えることがない。

それでも、この2つにもつねがいのようにすすみ、これからの自分たちを考える企画になることを祈りながら仕事を進めている。

2011年05月11日

今朝の河北新報1面トップの見出しは「震災2カ月不明9800人超」。

2カ月経つのに、未だ、あれは私にとって何だったのか、自分への問いをくりかえしつづけている。人間である自分の今のあり方にノーを突きつけられたことだけははっきり自覚できる。問題は、ではどうすればいいのかなのだ。

この頃の朝日歌壇の4人の撰者とも毎週、震災を歌ったものを数多く選びつづけている。それだけ震災をテーマにした投稿歌が多いのだろうが、撰者の意識の中に、もっともっと震災を考えつづけようという思いが強くある証とも思える。

8日の馬場あき子選第一首は、「記者らみな『瓦礫』と書くに『オモイデ』とルビ振りながら読む人もいる」。

私も「ガレキ」とそのまま使っていた。「オモイデ」と読む人との距離の大きさに恥ずかしさを覚えるが、この距離を縮めることはできるのか、できないまでも、何を、どうしたらオモイデとルビ振る人たちと未来への歩みを共にできるか。自分への課題はふくらむばかり、向うはまだ少しも見えない。

今朝のテレビの原発継続についての自治体へのアンケート結果も私たちのもつ課題を如実に示していた。

急を要するものも入れ、「復興」のための手順はまちがいなくある。それと並行してみんなで問いつづけなければならないものに「私たちのあり方の問い直し」が含まれていることを決して忘れてはならないように思うのだが・・・・。

2011年05月05日

前回、ドストエーフスキイ全集の最後の2冊を買えなかったことに触れた。1回240円の宿直手当が給料以外の唯一の収入。積極的に同僚の分を引き受けて「夜の学校を守って」も本代にはなかなか回らない。また、勤務地から仙台も当時はずいぶん遠かった。

そんな私を助けてくれたのが仙台から時々あらわれる教材屋のKさん。

ある時、Kさんとの雑談で本を買いたくても買えない話をすると、「欲しい本があったらいつでも言え。私が買ってくる。本代はボーナスの時でいい。いや、いつでもいい。」と言ってくれたのだ。数多くの学校を回っているKさんに(迷惑をかけては・・)」と思ったのだが、「気を使うことはない」という言葉に甘えることにした。

初任地の勤務は3年間で、その後同じ町内の中学校に転任した。その中学はKさんの販売エリアではなかったが私への本の配達はしばらくの間つづけていただいた。

今も書棚に並ぶ、100冊を超える「日本古典全書(朝日新聞社刊)」などいくつかの全集はKさんに買っていただいたものだ。

「私が学校をはじめたとき、子どもを学校に適応させようと思わなかった。子どもに適応する学校をつくろうと考えた」という、サマーヒル学園のニイルを初めて知ったのもKさんに買っていただいた本によってだった。

溜めていた本代を払うとき、Kさんは必ず1割引いてくれた。本好きの私のピンチはKさんによって救われた。

しばらく後、勤めが偶然仙台の地になり住まいも移した私は、さっそくKさんの住所探しを始めた。お会いして長年の礼を述べたかった。やっとお宅を訪ねることができたときにはKさんは既に他界しており、霊前で手を合わせるだけの礼しかできなかった。

私がKさんにたいへんな世話をいただき始めた頃は、映画「三丁目の夕日」と時がほぼ重なる。