2011年3月

2011年03月31日

昨日亡くなった彫刻家の佐藤忠良さんにはたいへんお世話になった。ずうずうしくもアトリエをお訪ねしたこともある。その時は、フランス文学者の佐藤朔さんの頭像を制作中だった。「なかなかうまくいかない」と言っておられた。ちょうど宮城県に作品を寄贈することになり、県議会に提出する目録をつくったというときだった。「自分で寄贈作品目録をつくるなんてとてもできないので、すべて任せた」と、弟子の笹戸千津子さんのつくった目録を見せていただいた。忠良さんとひとつになった広いアトリエの中の様子は今も私の中に残っている。また、この日、東京造形大学の名誉教授第1号の証書を見せていただいた。なみなみならない力を入れ込んでいる造形大学名の「第1号」は心からうれしそうだった。その書を手に大学ではこんなことを大事にしていると力を込めて話された。笹戸さんはたしか1期生だ。

私のクラスの6年生に忙しい時間をさいて彫塑の授業をお願いしたことがある。「自分の仕事がまだまだあるから、他所でもということにはならないように」ということで来ていただいた。2時間の授業だったが、忠良さんはとても楽しそうに子どもたちと向き合っておられた。(この時の写真と授業の報告を、かつての雑誌から、このホームページの授業実践の部屋に転載したので、ご覧いただきたい)。

講演も2度お願いしたことがある。1度は東北の民間教育研究会の集会の記念講演。演題は「私と彫刻と教科書」。1983年の夏で、山形で個展を開く前日で講演を終えるとすぐ会場を後にされた。

この講演の前に、国語教科書のなかの文学作品が自民党から問題ありと攻撃され、そのなかに、忠良さんが絵を担当した「大きなかぶ」も取り上げられた。それにいち早く反応しぐらついた光村出版を怒った忠良さんは、すぐ光村の絵をおりた。

講演の最後は、その教科書問題にふれながら次のように話された。出版社だけの問題に終わらせず教育にたずさわる者すべてが考えたいものだ。

~(光村に)お医者さんと教育のことだけは、あんまりみっともないことはしてほしくないって言ったのです。あなたたちが1円献金すれば、1円だけ教科書が悪くなるはずだ。何十年も日本の教科書はいいものが出ていない。本を安くあげようと思うから、三流の絵かきに本を頼む。絵を頼まれる三流の絵かきはアルバイトだと思うから、ますます粗末な絵を描く。だから何十年経っても、日本の本はよくならない。私は、教科書というものは、一流の人が絵を描いて、一流の人が文を書いてないといけないと思うのです。ところが、一流の人というのは本をバカにしているんです。・・・ ~

ご好意にあまえて本当にご迷惑ばかりおかけしてしまったものだ。そのなかで、ものごとへどう向き合うかについて忠良さんから受けた刺激は私にとって大きい。

これまでのことについてお礼を申し上げ、謹んでご冥福をお祈りいたします。

2011年03月28日

今日の帰り、震災前、通常通勤に利用していたバス・緑ヶ丘線に乗った。崩落個所の復旧中のため経路を変更しての運転。

今朝までは、バスで下りて地下鉄を利用していた。これも、丘から下りるバスが通るようになるまでは地下鉄駅まで片道30分を歩きつづけた。

ここ緑ヶ丘に住んで40年になるが、住み始めた時の地名は「長岫」(ながくき)。私は初め読めなかった。「岫」―「ほら穴のある山、またはそのほら穴をいう」と角川漢和中辞典は書いている。この地に戦後開拓者が入った。そこに宅地業者が目をつけて丘全体が宅地化されていった。斜面は初めて通る人が決まって驚く石積みの宅地。宮城県沖地震では、ある部分だけ稲妻が走ったように線状に丘の上まで家が壊れた。あとでわかったことだが、澤を埋めた上に建てられた家だった。今回もある部分の斜面の家々に避難勧告が出された。地名「長岫」を「緑ヶ丘」に変えたのは業者だろう。読みにくい地名、ましてやほら穴のある山では大いに印象がよくない。いつの間にかいかにも住み心地のよさそうな「緑ヶ丘」に定着したのだろう。

しかし、過日の法務省が行った土地測量の際の地図にはまだ長岫は生きていたことを知った。とは言え、誰ひとり「長岫」という人はもういない。

私が住んでしばらくは、屋敷の中に、季節の野草がそのときどき、取っても取っても姿を現した。ちょうど今頃は、フキノトウがそちこちにあらわれ、何回か天ぷらにしたのだが、今年は3つしか取ることができなかった。私の家の狭い敷地も40年の間に人の手が制した証拠だろう。

震災のあとで、昨日やっと水が出るようになり、ガスを待つ身ゆえか、庭に3つだけになってしまったフキノトウに、消えてしまった地名「長岫」に、自然との共生のあり方をいろいろ考えさせられた。(地名を平気で変えることも人間のおごりがあらわれていると言えないだろうか・・・)。

2011年03月22日

いつまでも気にしているだけではと、昨夜こわごわと東松島市のSさんに電話をした。ここもひどい被災地だからだ。電話は通じSさんの声。「昨夜、固定電話が使えるようになった。自分の家までは津波はこなかった」とのこと。緊張はもどったのだが、種々の話のなかでYさんが亡くなったことを知り、からだ中から力が抜けた。

Yさんは、6月のセンター10年度総会で、研究センターへの大きな期待と希望を述べてくれた。話を聞きながらYさんに応える仕事をしなくちゃと思った。その後何かをもつごとにYさんの反応を思いつづけていた。9月発行の通信61号では、若い教師たちの座談会への感想を書いてもらった。

「(大変でも)教師という仕事をやめたいと思っていないことに、まず安堵しました」と感想は始まり、「頼られていやな人間はいません。自分から、心を開いて話してみてはどうでしょう。話す中で、悩みの意味や深さ、解決の見通しや仕事の明日が少しずつ見えてくると思うからです。私たちも、若い先生方に、もっと具体的な援助をできるだけしていかなければならないとあらためて感じました。」と結んでいた。サークル「あすみの会」の推進者であるYさんらしいメッセージだと私は読んだ。あのYさんが子どもたちの前に2度と立つことのないことを想像するとやりきれない思いになる。

津波に命を奪われた会員がもうひとりいる。南三陸町の中学教師Mさんである。数年前、Mさんが支部専従時代に、女性部の学習会に呼ばれたことがある。東北本線新田駅までの送迎をしてくれ、会場までのやや長い時間の往復、いろんなことをしゃべり合ったことを思い出す。私の知るMさんは大声でエンゼツをするタイプではない。静かにこまめに世話をしている姿だけが記憶に残る。学校でもそうだったろう。もしかすると、その彼の人間性が命を失うことに結びついたのではないかと想像する。

Yさん Mさん、安らかに 安らかにお眠りください。

450人の会員の消息は把握できていない。まだまだ心配だ。

2011年03月16日

10日も日記を休んだ。日記をストップさせるY男に嫌味を言っていた自分を思い出した。

10日の分を書いて11日に送る予定でいたが、午後の事務局会議の準備、それに教育会館の専務と昼時間に話し合いとあり時間がとれず、会議の後にと決めていた。

その会議中だ、巨大地震が襲ってきたのは。14時46分。7坪の部屋の物、主として本だが、突然の大暴れ。常日頃の恨みをはらすかのように襲いかかってきた。逃げ出すより道はなかった。

すべての生活手段が止まったので、世の中のことはしばらくわからずにいたのだが、しだいに入ってくるニュースにしばらく言葉を失ってしまう。

昨日でセンターの部屋の片づけをだいたい終了。しばらくは考えごともできず、昼は陽のあたるところを探して本読みなどしてボンヤリ。やっと、センター通信の校正などに手をつける。62号の25日発送予定は大きく狂ってしまったようだ。

今朝、中森代表から電話。4月2日の講演会講師・清水寛さんから、お見舞いと会の延期の提案があったという。清水さんにも聴講を楽しみにしていた人々に申しわけないが延期とする。

この地震・津波を「我欲への天罰」と言った方がいたそうだが、そんな「カミの声」(自分はそう思っている?)がスンナリと言われる日本がたいへん気になるが、そんな人にかみついている暇もない。とにかくみんなで力を合わせてこの難局を乗り切りたい。

最後になりましたが、会員のみなさんがご無事でありますようにお祈りいたします。

2011年03月05日

2時から、太田直道さん(宮城教育大学)の最終講義。講義題は「哲学の七つの高地―私の哲学夢想」。

この講義のために太田さんは、A6版116ページのテキストをつくった。このテキストを使い2時間で七つの高地(「宇宙」「時間」「美」「想念」「ことば」「叡知」「愛」)を走り通し、居眠り得意の私もまぶたを閉じる隙を与えられなかった。

太田さんの最初の一文は「私が哲学を学んで幸せであったのは、目に見えないものに親しみ、現象の背後に秘められた諸原理と諸存在に思いを致し、そのような想いに心を馳せる楽しみをこの人生で味わったことであった」。学びの一つの区切りをこのように切り出す壇上の太田さんは終始輝いて見えた。

哲学の世界となかなか距離を縮め得ない私は、何度か近づく機会はあったのだがとうとう遠くにありて思うものになっている。1回目は大学の入学式での哲学者・高橋里美学長の式辞。その内容はまったく覚えていないが、話を聞いているうちに身が引き締まり大学に入ったのだという心の高揚の記憶は今も残る。学長は「内容なき思想は空虚であり、概念なき直観は盲目である」などとでもしゃべったのだったろうか。2回目は林竹二さんの教育哲学を受講。しかし、あえなく途中で脱落。林さんとはその後再会、亡くなられるまで教育実践を語り合ったが・・・。3回目は、生活科の教科書づくりを一緒した現代美術社の太田弘さんから「メルロポンティを読め」と言われ、「眼と精神」「意味と無意味」などを持たされたこと。しかし、私にはポンティを読む力はなく、教科書完成直後太田弘さんは急死。その後書棚のポンティは動くことはなかった。

その後2004年からセンターに行くようになって、太田直道さんにポンティを読んでいただくようになって、そうか太田社長が私に読ませたかったのはこのことだったのかもしれないと感じる。そして、ポンティは現在のカント読書会に発展、今年でなんと7年目になった。私は今もって哲学の世界に近づけないでいるが、太田さんの初めのことばをうらやましく思う心はもてるようになっている。

2011年03月01日

今日は県内多くの高校の卒業式。

「卒業」が耳に入ると、なぜか、中学卒業時の写真撮影の日のことが今でも浮かんでくる。もう、とうに忘れていいはずの瑣末なことなのに・・・。

その日、写真を撮ると言われていたことを思い出し、出がけに、どうせ2・3着しかなく、どれにしても変わることのない上着を決めることに悩み、死んだ親父まで思い出してうらみながら登校したのだった。なぜ、そんなつまらぬことがいつまでも体から離れないのだろう。はがしてしまいたいのにはがれない。

山びこ学校の答辞を読む機会があった。答辞を読んだ佐藤藤三郎はそのなかで、

「~私たちの骨の中しんにまでしみこんだ言葉は『いつも力を合わせて行こう』ということでした。『かげでこそこそしないで行こう』ということでした。『働くことが一番好きになろう』ということでした。『なんでも何故?と考えろ』ということでした。そして、『いつでも、もっといい方法はないか探せ』ということでした。そういう中から『山びこ学校』というのが本になりました。その本の中には、うれしいことも、かなしいことも、恥ずかしいこともたくさん書いてあります。しかし、私たちは恥ずかしいことでも、山元村が少しでもよくなるのならよいという意見でした。~」

と言っている。1951年3月23日とあるから、私の中学卒業時とまったく同じ。

私はと言えば、北上山地と北上川に囲まれた私の村にまだ輝きは見られたのに3年間を反芻することもなく卒業し、写真のことだけがいつまでもはりついているなんて・・・。藤三郎たちは「恥ずかしいことでも山元村が少しでもよくなるのならよい」と考えた。なんという違いだ。