2010年

2010年12月26日

今年も終わりという今になって、センターで2冊の本を発行した。

1冊は、仙台算数サークル編「宮城の教室で創られた子どもを育てる算数の授業」であり、もう1冊は4月にもった「憲法って何なんだろう」シリーズの第1回、作曲家・林光さんによる高校生相手の公開授業「ひとりひとりの憲法」の授業とその後のお話の記録をまとめたものである。

「算数の授業」は、教科書会社の指導書に満足せず、仲間が長い間集まりつづけて創った授業の実際である。授業記録から、それらの授業がどんなに子どもを動かすものかがよくわかってもらえると思う。若い教師にはぜひ手にしてほしいもの。

「ひとりひとりの憲法」の授業後、感想をSさんは「~私も光さんのように、しっかりとした自分だけの憲法をもちたい」と結んでいた。教師はもちろん、たくさんの高校生・中学生に読んでほしいと願う。

24日、出来上がりを待っていたHさんが音楽サークルの仲間に配ると言って「ひとりひとりの憲法」を100冊、同じ日、センターの会議に来ていたTさんが「会うたびに気持ちのいいあいさつをする高校生にプレゼントする」と3冊もって行った。夕方、預かっていた版画をとりに来たMさんが算数を4冊持っていった。おそらく学校の同僚を頭に浮かべての冊数だったのだろう。

2冊の本はとてもうれしくなる動きをしだした。

2010年12月19日

今になって「天の瞳」(灰谷健次郎著)を読んだ。灰谷さんのものはたいてい読んでいたのだが、これはどうしてか読んでいなかった。ちょうど退職した年に出版されたからかもしれない。古本屋で求めたエッセー集「優しい時間」に「『天の瞳』を語る」が入っていた。

そこには、「小宮山量平さんから、これこそが子どもだというあなたの子ども像を全力で書いて完成させなさいと言われた」とか、「今の学校から弾き飛ばされて<問題児>と烙印を押されている少年の持つ、人を見る目の確かさややさしさは、ある意味ですごいものがある」とかに引き寄せられ倫太郎に出会うことになった。

読むうちに、しぜん倫太郎ら腕白坊主たちの中に身をおいていた。彼らになで斬りにされ、教師である自分を変えていかざるを得なくなる教師たち。いや、変えていく教師たち。子どもを主人公として教師のどうにもならないアカをそちこちで見せながら、(自分を変えることができるでしょう)という灰谷の教師への優しいメッセージを感じた。「子どもに学ぶことだ」と軽々に言っている自分が果たしてヤマンバたちのように変われたか・・・。

情けないことに、とうに教職でないことにホッとするのだった。(あのときは・・・)と思いだすことは間違いなく倫太郎たちに非難されるだろうことばかりなのだ。

灰谷は何気ない会話のなかにドキリとすることを散りばめる。「子どもは試行錯誤をくり返し成長していく、その試行錯誤の振幅のはばが広ければ広いほど、大きければ大きいほど、子どもは豊かにたくましく成長する」とか「親の愛って、子の成長と、人のつながりをしっかり考えた時、生まれてくるものよね。溺愛は親の愛とは言わないと思う。親の愛に守られて、すくすく育っちゃいけないんで、親の愛に守られて、あれこれ悩んで育って欲しいとわたしなら思う」などと親同士が話し合う。

本は「幼年編Ⅰ・Ⅱ」で終わる。倫太郎たちは5年生。過去の自分がますます引きずり出されて怖い気もするがもっとつづけてほしかった。

2010年12月14日

「教育子育て9条の会 全国交流集会」が終わった。半日の集会だったが、子どもたちの元気な「はねこ踊り」が会を開き、9人のリレートーク、引きつづいてシンポジューム、最後は「ねがい」を歌って会は閉じた。あっという間の時間だったが、会の趣意が、ひとり6分のトーク、短い時間しかもてなかったシンポの3人の発言に端的に表れていた。超多忙な呼びかけ人の半数以上も駆け付けたところに子どもの今と未来を危惧する本気度を感じ、自分にできることは何かいろいろ巡らせながら、子どものことを考えるたくさんの人と同じ場所にいることに気持ちが弾んだ。300人近くの参加者にも会はまちがいなく何かを残したに違いない。

この日に合わせて刊行された「いのち、学び、そして9条」のなかで、呼びかけ人のおひとり池田香代子さんが、「おとなが子どもに何かいいことを言ってやるとか発想するのは、おこがましいと思います。その前に、おとなは子どもが知っているべき、自分の尊厳の根拠をきちんとさししめすこと、社会は子どもにかけるべきお金をかけること、つまりは子どもたちが伸びやかに成長するためのお膳立てを整えることに専念すべきです」と書いていた。

また、10年前の2001年に、童話屋が「日本国憲法」という豆本を出しているが、その表紙に、「子どもたち、この新しい世紀のはじめに、『日本国憲法』を読みなさい。なぜいのちや1個人というものが尊いのか、なぜ自由や平等が大切であるのかを、深く考え、話し合ってほしい。――そして、ともに遠く未来を見つめよう。千年後の子どもたちに遺すもの ――青い星、地球。」と書いている。 憲法はみんなのもの。「ともに遠く未来を」。“教育子育て”を冠にした9条の会がもたれたこの12月11日を忘れないようにしよう。

2010年12月08日

11日、ここフォレスト仙台でもたれる「教育子育て9条の会―全国交流集会」にたくさんの人が集まることを願っている。

教育子育ては誰にとっても難しい仕事だ。社会環境の変化が激しければその難しさは増す。今がその時だろう。年を重ね過ぎた私は、何十年と重ねたはずの教育子育てをそのまま話すことが怖くなっている。

こんな時、親や教師はどうすればいいか。やはり、複数で話し合うこと、いろいろな人の話を聞くことが大事ではなかろうか。大胆に言い切ればこれしかない。

私が小学2年(この時は国民学校)の時、なんとなく学校に行きたくなかったので、「腹が痛い」と朝ご飯を食べずに寝ていた。すると、母に布団をはがれ、ランドセルをしょわされ、途中まで引きずられて投げ出された。仕方なく学校に行ったが、母はなぜ嘘だとわかったのかしばらく考えつづけた。結論は、母はだませないであった。

3年の時、講談全集で儒学者・中江藤樹を読んだ。近江から伊予に勉強に行っていた8歳の藤樹が、母があかぎれで苦労していることを知り、薬を買って母のもとに帰った。ところが井戸端にいた母は修行半ばになぜ帰ってきたかを問う。わけを話したが、薬も受け取らず家にも入れず、そのまま伊予に帰したのだ。

読んだ私はびっくりした。自分の母親どころではない。

そんなことムカシノハナシですと言われて終わりに違いない、そうだろう。でも、いつの世も教育子育ては、事例を互いに出し合いながら考えることが我々凡人には一番のように思う。ゆえに、11日の集会にはたくさんの人にがんばって出てきてほしいと願う。

2010年12月03日

数日前から、ずいぶん時間をおいてしまったが、作曲家・林光さんの公開授業のブックレットづくりに入っている。年を越すことなく仕上げたいと思う。センターつうしん59号で会員には授業の記録は届けているが、ブックレットは、授業後のトークと一つにしたものになる。

通信の記録を読んだ友人のKさんから、次のようなメールがきていた。

「夏休み前にして時間ができたので、林光の授業を読み返しました。あの日、『老いたなあ』という感想が一目見て浮かんだことが、たぶん話を聞く態度に影響を与えたのかもしれません。話にキレがないなあと思って帰ったのでした。

気が進まなかったのですが、今朝読んでみて、内容のおもしろさに驚きました。4つの話、どれもいいですね。」

Kさんのメールにも後押しをされた。

授業の形はいろいろあるだろう。対象によっても考えなければならないのはもちろんだ。にもかかわらず、生徒に向かって話をするということはどういうことか、授業を参観なさった方々はいろいろ考えたにちがいない。その他多くの方々にも読んで考えてほしいとの願いがブックレットをつくろうとしているねらいだ。

教師は、その職に対して、林さんに何を問われたかも考えていただければうれしい。

2010年11月30日

26日、Nさんの授業を観に行った。2年生の作文の授業。

たいへんいい気分で1時間を過ごした。授業が、子どもも参観者も、そして(おそらく)Nさんも、三者それぞれが心を満たされる時間になる授業というのは、めったにないのではないか。

この時間はハルカちゃんの日記をみんなで考えた。最初にハルカちゃんが読む。その後に、「ハルカちゃんが書きたいと思ったこと」を全員が書く。書いたものをみんなに知らせたいたくさんの希望者の中から6人が出て黒板に書き、その一つひとつについて話し合った。話している子も耳をかたむけている子もみんな体がやわらく感じる。安心して暮らせている証拠だ。教室に休みなくいい空気が流れる。Nさんが子どもたちへ話す言葉も流れを切ることがない。これまで何回か見ているNさんの授業の雰囲気と違うことに内心驚く。彼は後の検討会で、「前の学校で今までの自分ではダメだと感じました。一皮むけたのでしょうか」と言っていた。

授業は「みんなで考えたこと」を書いて終わった。私の前の座席のサヤカちゃんは「作文ってこんなにつうじるんだなあとおもいました」と書いて鉛筆をおいた。何を頭に描いて書いたか私にはわからないが、それを目にして、私の中のうれしさがますますふくれあがった。

2010年11月26日

筑紫哲也の書いたものを読んでいたら、「七人の侍」のような時代劇をもう一度つくってほしいという声が最晩年上がった時、黒沢明が「村を盗賊から守れそうな奴(役者)が今どこにいるかね」と言ったと書いてあった。私は(さすが黒沢!)と大いに感じ入った。

黒沢明の年譜を調べると、1910年に生まれ98年に亡くなっている。「七人の侍」は54年の作品。この話は黒沢の「最晩年に」とあるから「あの作品をつくった40数年後の今は」ということになるか。

時代の動きで価値観も変化するのは当たり前。それでも「村を盗賊から守れそうな奴がいない」とすれば一大事。という言い方は少し大げさすぎるかもしれないが、筑紫は、このエピソードを食の問題を考える中で引き、顔かたちの変化だけでなく、体力・運動能力の低下まで関連づけているので、つい・・・。

時代劇は今も映画からもテレビからも消えていないが、どれもこれも役者は黒沢なら無視するだろうイケメンのサムライ。これらの面々が見事な太刀さばきで「村を盗賊から守る」類の演技を見せ、天下も動かす。「七人の侍」を知る人は少ないのだから少しも違和感をもつことがないどころか、黒沢の言の方をこそ理解に苦しむだろう。

しかし黒沢にすれば、映像で時代を描く時、人物の衣装や立ち居振る舞いだけでは許せないものをもつのだろう。時は動いていることを重々承知しながらも、いつの間にかテレビに流されている自分に気づきハッとすることが何度もある今、こんなこだわりと頑固さをもつ人がいたことを私は忘れないようにしたいと思う。

2010年11月19日

宇宙探査機「はやぶさ」のカプセルに小惑星「イトカワ」の微粒子が入っていたという。快挙である。それを16日のテレビのニュースが報じた。その最後に、「はやぶさ」の展示会に行ったことがあるという母子が映った。マイクを向けられた女の子がとてもいい顔で「よかったね」と言い、母親は、「子どもが『よかったね』というニュースはいいですね」と言った。カプセル内の微粒子の価値とは比較にならないかもしれないが、この母子の短時間の映像は私になんとも心地よいものとして強く残った。

母親の言葉は、「子どもが観て『よかったね』と言えるニュースのなんと少ないことか」ということに置き換えられよう。私も毎日うんざりだ。たとえば国会のニュース。聴くに堪えない言葉のやりとり。非難合戦。まさかそれだけで明け暮れているわけではなかろう。その種のものを送るのがニュースであり視聴者が喜ぶものとどの局も思いこんでいるようだ。「国会の実態なのだから」と言われそうだが、それでもなおバカにしないでほしい。

週刊誌などは、人についてこれ以上の悪しざまな表現があるだろうかと思われる見出しつけの競争をしているようだ。新聞に載るこれらの広告の文字に具合が悪くなる。

「はやぶさ」ニュースの母親の言葉にドッキリした関係者はいなかっただろうか。

2010年11月16日

「民主教育をすすめる宮城の会ニュース」15日号のなかに毎日新聞からの「ゆとり教育世代:7割が学力低下実感 明大学生が同世代1000人調査」が載っていた。

7割の学生が学力低下を実感しているという。この言葉になんとなく違和感を覚えるが、自分たちがそう言っているというのだからそこにいろいろ言うつもりはない。

私がいつも気になるのは、「ゆとり教育」が学力低下と結びつけられて言われることである。そろそろこれを使うことは止めたらどうだろう。「ゆとり」は悪ではないのだから。

この問題の根は学習指導要領の拘束性にあり、教科書の検定制度・採択制度にあると思う。そこが改められれば、教科書各社が競って創造的な編集をし採択が教師の責任においてなされ、その時々の学力問題についての議論はもっと本質的なものになり、残るは、採択者である教師がいかに創造的な授業をつくっていくかが問われることになるだろう。

私の生活科教科書づくりの体験からまた一つの例をあげてみる。1年生の教科書で、学校を中心にして高いところから見下ろした絵が検定で修正を要求させられた。理由は、「遠くに街並みが見えるが、これは、明らかに他学区であるから削るように。1年の学習範囲は自分の学区だけである」というのである。こんなことが真面目に取り上げられる教科書の学習は果たして子どもの世界を広げることになるだろうか。こんな例が山とあるように思う。私の言いたいことは、たとえば、ここの突破である。

蛇足になるか。かつて6年生の3学期末の算数についてS男が、「復習もいいが、新しいことも勉強したいなあ・・・」と日記に書いてきたことを思い出した。

2010年11月10日

前回紹介できなかったMさんの「里山物語」。

報告をつめて言えば、「米作り」を中心にした「里山探検隊」としての活動、その1年間の体験学習から生まれた劇と共同版画づくりで仕上げた実践。

Mさんの米作りは他とはずいぶん違う。戦後樺太から帰国入植開拓したカマタおばあちゃんからの聞き取りをもとに「用水路探検」「水路作り体験」を組み、田の土の観察へ。校庭・花壇・森の土との比較。稲の成長の観察も密だ。夏休み中も子どもたちは田に集まる。収穫後は足踏み脱穀機を全員で踏み、収穫祭にはお世話になった方々をも招いて。その後、学芸会での劇になり共同版画制作で一連の活動が終了。いかにていねいな取り組みであったか、子どもたちがいかに入り込んでいたかは、最後の共同版画にあますところなく表現されている。

Mさんは言う。「地域の方から教えていただくには時間がかかるのだ。1度や2度足を運んだだけで教えてもらえると思うな」と前回紹介したKに教わっている。Mさんも、その教えを生かし、カマタのおばあちゃんに相当回数通っている。子どもたちもまたおばあちゃんと仲良くなっている。この「里山物語」はおばあちゃんからのていねいな聞き取りがなければこのような内容豊かな学習に結実しなかったろう。

言葉を替えれば、Kからのバトンを確かに受け継いで作り上げた仕事とも言える。

それに加えて、Mさんの報告の中に「私のクラスのA君は、常にまわりにいる人の胸に刺さる言葉を吐いた。7時半には学校にやってくる彼。父親が失業していたのだ。朝ごはんの用意はないようだった。「早寝早起き朝ご飯」、文科省が、学力が思わしくないのは家庭の基本的生活習慣のせいだとしているかけ声が空しく思われた。事情は子ども一人ひとり違っているのだから」という記述が見られるが、軽薄な言葉に惑わされることなく、子どもの側にしっかりと足を据えたMさんの教師としての立ち位置もKと同様のものであり、Mさんの確かな仕事つくりの根になっているものであると思った。

Mさんの仕事は、学校の在り方・教師の資質向上に、教員免許更新制よりはるかに何が大事かを事実で提案したものとも言えるだろう。

2010年11月07日

今年の「教育のつどい」が終わった。2日目の今日は「子どもが育つ授業とは」の分科会に参加した。報告者のひとりはMさん。報告は総合学習の「里山物語」。

Mさんの教師スタートは私の友人Kのいる学校だった。Kは何をやるにも徹底していた。それゆえにか、51歳の若さで我々の前から去ってしまった。Kを連れ去った病魔を私はいまも憎んでいる。少なくとも現役での刺激のし合いがまだ10年近くもあったのに奪いとられたたことが何よりも悔しいのだ。残された仲間でKの遺稿集をつくり、署名を「こだわりに生きて」と名づけた。

この遺稿集には社会科の実践を①「“地域の掘りおこし”と日本史の授業(小6)」②「生活を支えてきたもの(小4)」③「給食室で働く人々(小1)」④「わたしが大きくなるまで(小1)」の4本だけ載せた。

①では学区内の板碑調べをしている。それにふれて、「この板碑を中世の授業の核にし、その背景として岩切の百姓たちの生産への取り組みの姿を子どもたちと一緒に描き出したかった」とKは書いている。

②について、「農業用水の学習を通して、農業と水のかかわり、水を手に入れるためのさまざまな知恵、農民の願いなどを知ることができる」「このことは、じいちゃんやばあちゃんの話を聞き歩くなかで、さらに確信を強くすることができた」とKは記録に書く。

Kの仕事は一貫して、こうだった。Mさんは、そのKと最初の4・5年を同じ学校で暮らすことができた。

「先生と子どもの信頼関係の基本は、教科を自信をもって教えられることであるはずだ。面白さや人気だけでは教室での信頼は築けない。そのためには、先輩教師が後輩教師を育てる教育機能が学校に必要だと思う。<中略>(その)教育機能が働いていないのが現状のようだ」と歌人の俵万智さんが今日の朝日新聞に書いていた。私も同感だ。

Mさんの報告の内容に入らず長くなった。次回に紹介させていただく。

2010年11月02日

昨日の「クローズアップ現代」で微生物が取り上げられているのを見て、かつての教科書つくりのときのことをまた思い出した。私たちのつくった生活科教科書は「他者の理解」と「循環」の2本の柱とすることに議論を重ねた末に決めた。「学習指導要領に沿って」ということではなくて、今子どもたちと何を一番考え合いたいかの方を選択したのだ、その後の苦戦は重々承知のうえで。

果たして、検定で「びせいぶつ」にもクレームがついた。「高学年で扱う用語だ」と。でも、私たちの構想から言えば微生物を欠いて柱の一つ循環は成り立たない。書き換えて提出するとき「目に見えない生きもの」とした。しかし、検定官に「微生物と同じではないか」と一喝。万事休すかと思われたときのアイディアはこうだった。

教科書は「ひとつづきの詩のような読み物に」の考えをあえて壊し、1年生用に「きれいに見える手でも/食事の前には/手を洗おう。/目には見えないけれど/黴菌が付いているかもしれないから、/人の目には見えないけれど/生きているものがいる。」(原文はすべてかなの分かち書き)を入れた。そのうえで前回の「目に見えない生きもの」は書き換えなしで再提出。なんとするりとパス。循環の柱を倒すことなく教科書をつくることができ、教科書の最後を以下のような文で結んだのだった(過去形で書くのは悔しいが)。

うごきまわる 生きものも、うごきまわらない 生きものも、
ちきゅうの 上で みんな いっしょに 生きて いる。
人だけが とくべつな 生きものでは ない。
人は うごきまわる 生きものの なかまだ。
人は、人が かんがえた ことだけを 学ぶのでは なくて、
うごきまわる 生きものの 生きかたや くらしかた、
うごきまわらない 生きものの 生きかたや くらしかたからも 学ぶ。
そして、人が どんなに しぜんに ささえられて いるかを おしえられて、
みんなで どう 生きるかを 考えながら、生きて いく。

2010年10月28日

岩手の友人から「ひらつかこうぞう童話集『けん太は二年生』」が届いた。亡くなった仲間の残した文を集めた追悼の文集。付録として「ちいさなおはなし」もはさんであった。

私は平塚さんとは雑誌「教育国語」に「詩の授業のすすめ」のテーマでの低高学年連載を分担担当し、たくさんの教えを受けている。「ちいさなおはなし」からひとつ紹介。

テスト
熊の子が、町の学校にはいりたいといってやってきました。
校長先生が、さっそくテストをやってみることにしました。
まず、『テスト』とかいてあるカードをみせて、
「これを、読んでごらん」
といいました。すると、熊の子は、でっかい声で
「いじめ」と読みました。
「きみきみ、そんなに大きい声をださんでもいい」
校長先生は、そう注意してから、
「では、これを読んでごらん」
といって、こんどは『いじめ』とかいたカードをだしてみせました。すると、
「テスト」
と、またでっかい声をだしました。
- 校長先生は、テストをやめました。

著者と子どもたちの教室が浮かんでくる。こんなお話をつくっては子どもたちに読んできかせたのだろう。子どもたちは毎日のように「今日のお話は!」と催促したに違いない。平塚さんはそれに応えるためにせっせとつくったのだ、「ちいさなおはなし」を。教室はいつも先生と子どもたちのおしゃべりで花が咲いていたのだろう。子どもたちはよく聞いてくれる先生に先を争ってお話を聞かせたにちがいない。それが、「ちいさなおはなし」「けん太は二年生」の童話に結実していったのだろう。

先生とたくさん話ができることは子どもたちにとって最高の幸せであることは昔も今も変わるはずはない。「忙しくて、子どもたちとしゃべれない」などという状況があれば教育の危機だ。幸せを阻害するものがあれば体をはっても、子どもとのしゃべり場は守りたいものだ。

2010年10月23日

22日の朝日新聞・声欄「国会議事堂もっと開放したら」を読んだ。投稿の趣旨は、蓮舫大臣の国会議事堂内での写真撮影問題に関連して「国会議事堂は国民の財産である。審議には配慮し、積極的に開放することを望む。開放によって国民が政治を身近に感じる効果も期待できるかもしれない」というものである。

投稿者のEさんは私とあまり年齢の違いはない。この問題の質疑に貴重な時間が費やされる光景を私は苦々しく眺めはしたが、この方のような柔軟な想像はまったくもつことがなかった。Eさんの言うように国会議事堂が開放されていればつまらない問答など耳にすることがなかったうえに、議事堂開放は本当に「国民が政治を身近に感じる」ようになるだけでなく、政治家をも国民に近づけるかもしれないように思う。

私がかつて教科書検定の結果を聞きに文部省(当時)の建物に入ったとき、文部大臣室の階のエレベーターの前から大臣室まで赤いジュ―タンが敷いてあったのを見て驚き呆れたことを思い出した。

すべてこんなことの一つひとつが国民の代議員である人たちの特権意識を増幅させ、果ては自分の人間性までも歪めていくのだろう。これは国会議員だけに限ったことでない。バッチひとつが、名につく役職名までが、簡単に人を変えてしまっている事実は身の周りに万とある。私自身は想像の域を出ないが、よほど気をつけないと校長室などという別室なども危ないなと思う。

Eさんのようなセンスをうらやましく思うだけに終わらせず大きな刺激と受け止め、無理かもしれないが、枯渇している自分の想像力を豊かにしなければならないと思った。Eさんの「声」の文に感謝だ。

2010年10月17日

22日の朝日新聞・声欄「国会議事堂もっと開放したら」を読んだ。投稿の趣旨は、蓮舫大臣の国会議事堂内での写真撮影問題に関連して「国会議事堂は国民の財産である。審議には配慮し、積極的に開放することを望む。開放によって国民が政治を身近に感じる効果も期待できるかもしれない」というものである。

投稿者のEさんは私とあまり年齢の違いはない。この問題の質疑に貴重な時間が費やされる光景を私は苦々しく眺めはしたが、この方のような柔軟な想像はまったくもつことがなかった。Eさんの言うように国会議事堂が開放されていればつまらない問答など耳にすることがなかったうえに、議事堂開放は本当に「国民が政治を身近に感じる」ようになるだけでなく、政治家をも国民に近づけるかもしれないように思う。

私がかつて教科書検定の結果を聞きに文部省(当時)の建物に入ったとき、文部大臣室の階のエレベーターの前から大臣室まで赤いジュ―タンが敷いてあったのを見て驚き呆れたことを思い出した。

すべてこんなことの一つひとつが国民の代議員である人たちの特権意識を増幅させ、果ては自分の人間性までも歪めていくのだろう。これは国会議員だけに限ったことでない。バッチひとつが、名につく役職名までが、簡単に人を変えてしまっている事実は身の周りに万とある。私自身は想像の域を出ないが、よほど気をつけないと校長室などという別室なども危ないなと思う。

Eさんのようなセンスをうらやましく思うだけに終わらせず大きな刺激と受け止め、無理かもしれないが、枯渇している自分の想像力を豊かにしなければならないと思った。Eさんの「声」の文に感謝だ。

2010年10月13日

私は子どもとのことで、辞めてもなお抜けることのない棘の痛みをいくつもかかえる。卒業を前にして転校して行ったK子のこともだ。いじめに耐えられないがその理由で、私のことばはもう聞いてもらえなかった。

茨木のり子に「癖」という次のような詩がある。


むかし女のいじめっ子がいた
意地悪したり からかったり
髪ひっぱるやら つねるやら
いいぃっ! と白い歯を剥いた

その子の前では立往生
さすがの私も閉口頓首
やな子ねぇ と思っていたのだが
卒業のとき小さな紙片を渡された

ワタシハアナタガ好キダッタノ
オ友達ニナリタカッタノ
たどたどしい字で書かれていて
そこで私は腰をぬかし いえ ぬかさんばかりになって

好きなら好きとまっすぐに
ぶつけてくれればいいじゃない
遅かった 菊ちゃん! もう手も足も出ない
小学校出てすぐあなたは置屋の下地っ子

以来 いい気味 いたぶり いやがらせ
さまざまな目にあうたびに 心せよ
このひとほんとに私のこと好きなんじゃないか
と思うようになったのだ

その後一度もK子に会っていない。K子はこの詩に出会うことはなかったろうか、あのいじめた子が「菊ちゃん」と同じだったのではないかと考えることはなかったろうか・・などと、この詩はK子のことにいろいろな思いをもたせた。自分の体から抜くことのできない棘を1本でも抜き取り、痛みを和らげたいためだったとしか言いようはないが。

2010年10月08日

国会中継を見るたびに未来への希望だけでなく人間への信頼・期待まで失う感じをもたされるのはなんとも淋しい。そんな気分を吹き飛ばしてくれたのが、鈴木さん根岸さんのノーベル賞受賞。希望は捨ててはならんと叱咤された思いだ。しかも、すべてカネがもの言うかのような居心地の悪い世の中で、『国のお金で研究したものだから』と特許はとらずじまいだったとのこと。「産学協同」だけが強調・評価される昨今、その他の研究者のことが気になっていた自分にはこれもたいへんさわやかな贈りものに思えたし、行政の研究者観が変わるささやかな期待もふくらんだ。

ノーベル賞というと湯川さんをすぐ思う。終戦4年目、中学2年生の私が初めて聞いた賞だった。新聞・ラジオで知るだけでその実は想像も難かったが、毎日の生活に精一杯の日々を過ごしていた私たちへの大きな夢のプレゼントだった。

何年か後、朝日新聞に湯川さんの自伝「旅人」の連載が始まった。毎日楽しみに読んだが、そのなかで、中学(旧制)までの湯川さんはたいへんな文学少年だったことを知って驚くとともに、勝手に、(そうか、文学が自然科学のベースになっていたのだな)と変に納得したのだった。

鈴木さん根岸さんたちの受賞を機に、現在の受験教育は確かに人を育てているのか、そして、人を育てる教育はどうあればいいのかを、この際本気になって考えてみていいのではないか。教育を「ゆとり」とか「つめこみ」とかでくくった言い方にしないで・・。

2010年10月03日

井上ひさしが亡くなってもう5カ月を過ぎる。著書や関係する本をぽろぽろと読んでいるが、時間が経つにつれ惜しい人をの思いがつのる。

彼は、中学時代、亡父の蔵書を濫読、そのうちのひとつが坪内逍遥訳「シェークスピア全集」。高校時代に観た映画は千本。「キネマ旬報」などに投稿、しばしば掲載されたという。

井上と似たような中学・高校時代を過ごした人は他にも結構いるのだろうが、学校・家庭そして世間まで囲い込みがひどくなっている子どもの今は、相当な覚悟がないと井上的中高生活は難しいだろうなあ。

井上とほぼ同年代の私の場合は、家にあったのは「講談全集」と「大衆小説全集」の2種だけ。小学校時代、布張りの表紙がぼろぼろになるまで読み、中学は野球漬け。天地の違いだが講談物でもそれが本好きにしてくれたと思うと悔いはない。

教師になってからは、私自身が子どもらの読書環境だということを常に意識してきた。それはまた私の本への興味をつなぎつづけ、読書領域も広げてくれたと思う。ある同級会で飲んでいる最中、わんぱく坊主だったW君が「『漂流』はおもしろかったなあ!」と叫んだ。突然だったのでびっくりしたが、以後の酒はいちだんとうまかった。「漂流」は吉村昭の作品でWたちは6年生。暇を見つけては読みつづけ、終えるに3か月かかったのだった。

2010年09月30日

今朝の河北新報に「教員免許更新制を継続 文科副大臣 ねじれで廃止法断念」の見出しの記事があった。私は「廃止する」という民主党政権の考えを学校・教師のために歓迎すべきことと喜んでいたので、この発言を非常に残念に思う。「ねじれ国会」を理由に早々と引っこめるということは、それほど真剣に考えていなかったのだなとも思った。こんな調子ではその他の教育政策についてもこれまで同様か・・と体の力が抜ける。

「更新制の講習は有益だった」という受講者の投書を朝日新聞で目にしたことがある。目を疑い、今まで本気な学びをしたことがなかったなと思いながらも、学びが有益だったと言っていることを非難はできない。しかし、このような受講者の声を免許更新制度の是認と結びつけるのもあまりに軽薄。

学びを欠いて教師の仕事は成り立たない。だからこそ、教師の教育研究は常に保障されなければならない。現在の問題はこの学びが保障されていないことにある。それは更新制度を導入することで脅迫的に学ばせて済むものでなかろう。どうしたら、学校に、教師の一人ひとりに教育研究を確立できるかが問われているのであり、あらゆる場で創造的に取り組むこと以外に解決の道はあるまい。

末川博は第7回全国教育研究集会(1958年)の記念講演の冒頭で、「未来を信じ、未来に生きる。そこに教育がある。すなわち、教育は、その成果を将来に期するものであって、たとえてみれば、種をまき、苗を育て、そして秋のみのりを待つようなものである。そのような未来を信じ未来を生きるところに教育の本質的なものがあるのだから、教育は、現在の問題を解決するために権力がたずさわろうとしたり目前の利害によって動くことのはなはだしい政治や実業とはまったく違うものをもっている」と言った。

いま教育は「政治や実業」に動かされている。しかも、それが教育の役割だと言わんばかりに万人がせっせとなっている。子どもがかわいそうだ!将来が心配だ!

2010年09月24日

前回、教科書採択にかかわって、私が参加した生活科教科書検定の実際を少し書いた。その生活科が実施された翌年、私たちは生活科学習のサークルをつくった。第1回が1993年9月11日。月例の会で、以後ほそぼそと今もつづく。メンバーから退職者がつづくようになり、会を閉じる提案をしたが、それでもつづけようと一致、会場を転々としながら今年17年目になる。つづけてもらっているおかげで現場を離れた私の大事な学びの場になり、この会に支えられてあまりグラグラせずに生きられていると思っている。

先の9月の例会では、Yさんから出された「2年5組の大発見 2010」について話し合った。通学の往復で見つけたものを大きい短冊用紙に書いて教室に貼っていたものを夏休みに打ち込んだそうで、A4で10枚の資料。すべて子どもの文。

4月21日 昨日おひるごろ児童館のサクラがさいていた。色は白で花びらがいつつついていました。きれいでした。 なな

に始まって

7月20日 モチノキにみがついていました。形は丸いです。大きさはおやゆびぐらいでした。ハナミズキも見つけました。みもついていました。色は赤でした。 かんた

で終わっていた。

私たちは、現場にそっぽを向かれた生活科教科書で大切に考えたのは、「受け売りや孫引きの『知識』を与えることではなくて、自然やものごとの理(ことわり)を翻然と悟るように感じとらせること」だった。

家に帰って、Yさんの子どもたちの「発見」の文を私は声に出して読んだ。読むごとに心が洗われ教室の様子もしぜんに浮かんできた。

2010年09月18日

来年度からの小学校使用教科書が決まった。宮城県は8採択区に分かれているが、国語・社会・算数は全区で「東京書籍」。その他の教科でも東京書籍が目立つ。どうしてこのような結果になるのかはわからないが、東京書籍はそれだけ各教科書ともに他を圧する内容ゆえとしか考えられないが、それにしてもやや奇異の感はぬぐえない。

かつて、生活科が教科として誕生した時、私もG社の教科書編集に参加し、呼び出しを受けて文部省(当時)に出向き、教科書調査官から検定結果を聞かされたことがある。調査官は冒頭「申請12社のうち、11社はほとんど同じで、1社だけ甚だしく違う。その1社があなたたちのだ」と言い、修正個所の指摘は、1・2年用あわせて100か所を超え、「よって不合格。もし修正する気があれば、指摘箇所を75日以内に修正して提出するように」とのことだった。そのうえ、「小学校の先生は、1ページに1か所以上教えるヒントがないと教えられませんよ。あなたたちのにはそれがない」と小学校教師の私を前にシンセツな助言までもらった。

その後、指摘箇所について、私たちの趣意を曲げない努力で修正し、やっと検定を通過したが、思うような採択が得られず、今は教科書界から撤退して姿はない。しかし、この教科書づくりの体験が私に残した知の財産はそれまでになく大きかった。

教師の教科書選択も一人ひとりが本気で取り組むことができれば教師の力量を飛躍的に高めると思うのだが、なぜかそうなっていないことがいまだに気になる。

2010年09月13日

樋口さんの講演「憲法という人類の知慧」が終わった翌日、Kさんからメールが入った。「聞いて良かったです。このごろいろいろあって、あまり調子がよくない状態でした。」とのこと。その不調の因としての学校内外のことが連ねてあった。

校内では管理者による「こまいチェック」は数知れない、という。夏の教育課程伝講会では「すべての教科で道徳を教えること、そのための全体計画を作れ」と言われ体の力が抜けたが、これに限らず「○○計画」を作れという指示が増えてきている、と。

メールを読みながら、子どもと真向かって必死のKさんの姿と合わせて人影が見えず音も聴こえない学校が浮かんできて、私まで落ち込んでしまった。

これに似た話は多くの仲間からよく耳にする。返すことばがなく困っていつもオロオロするのだが。どこもかしこも縦の関係だけが強化され、「指示」を堅持することが仕事になる学校像の想像はた易い。教育創造の発揮できない学校での仕事に誰が誇りをもてるだろうか。教師が誇りを持てず憂鬱だけを感じる学校が子どもにとって楽しい学校になるはずはないと思うのは思いすごしになるだろうか・・。子どもはそんなにヤワではないとも思っているのだが。

2010年09月09日

教育学者の田中孝彦さんが著書「子ども理解」の中で「教師の教育実践の質を最終的に左右するもの、それは、結局は、子どもと向き合ったときに瞬時に発動する、直感的な子ども理解のセンス、子どもが求めている教育実践を直感的に構想するセンスの豊かさ・確かさではないだろうか」と書いていた。

私もほぼ同様のことを大事に子どもたちと向き合い努力をしてきたつもりだったが、今になっても心の奥底に澱のように沈み、繰り返し胸を突き刺してくる数えきれない教室の出来事をもつ。田中さんの言う「センス」はどうやって磨けるか。私のような凡庸な教師は、自分の努力だけではセンスは磨けない。職人のように優れた教師から技を盗むに懸命になることや、同僚などからうるさいと思われるほど聞くということしかないように思う。

私の一例をあげると、30代の半ば、ある日の朝会で折れた太鼓のバチを手に、1500人の子どもたちの耳と目をバチ一点に集中させる話をしたHさんに非常に驚かされたことがあった。翌年の担任希望は「Hさんと同学年にしてほしい」とねばり、願いはかなった。それもHさんと隣りあう教室に。その年の私はこれまでにない無形の収穫を得た。

2010年09月01日

仙台市東部にあるA保育所を写真を撮らせてもらうためTさんと訪問。音楽サークルHさんの時間は既に始まっていた。玄関を入ると、ピアノの音が聞こえる。ホールは年少組の子たちであふれピアノに合わせて休みなく動いている。20分程度で年長組との交代。2階階段に年長組が現れると、いつの間にか年少の姿は消えていた。Hさんのピアノは切れ目なく年長へと移っていく。

たいへんな運動量だが子どもたちに疲れは見えない。でも、昼食後の午睡の時間の子どもたちの姿がしぜんに浮かぶ。

男の保育士のYさんにちょっとの間を盗んで話しかける。まだ経験半年だというが子どもたちと一つになってうごく様子は見ていて気持ちがいい。「浪人をするとき、親に卒業後何をするかをはっきり決めろと言われ、子どもが好きだから子どもを相手にする仕事を目標にした」と言っていた。「この仕事をやれてよかった」と充足感が体に満ちていた。こんな伸び伸びした新卒教師に出会えるのはなかなか難しい。子どもたちと一体となり汗まみれになっているYさんがどうして日本の学校に見つけにくくなったのだろう・・・。

2010年08月27日

12日の日記に「山びこ学校から何を学ぶか」を取り上げたが、一部私の誤記があった。「多くの書き手のうち、教育学者は3人だけ、現場はひとりも見当たらない」と書いたのだったが、教育学者では宗像誠也さんも書いており、現場では、滑川道夫さんは当時成蹊学園の主事であり該当するし、有名な付属小の方も書いているから、現場の書き手ゼロはまちがいになる。あわせて訂正させていただく。ついでに、山形県教育研究所員・教育委員会管理主事、そして山元中学の校長も書いておるということを、現在ではほとんど考えられないことなので付しておく。

校長の文のなかに、「『参観者が多くて迷惑なことですね』と同情してくれるが、私たちはその反対で、『山びこ学校が読まれて、それに興味と関心をもたれ、この山村までお訪ねくださる方は、きっと子供を愛し、教育を愛し、日本を愛される方なんです。私たちは、そういう方と話し合い出来る機会を心から望んでいるのです。・・・』」とあった。読んで私も、迷惑な人のひとりになり、本間校長にぜひお会いしてみたかったと思った。

「ぶらりひょうたん」の高田保は「私は無性に泣かされてしまった」、劇作家の三好十郎は「私は何度も泣いた」と書いていた。鶴見俊輔は「日本から望むことのできる最も善いものが、『山芋』と『山びこ学校』において確固とした姿をとっている。僕たち、日本の反植民地化をのぞんでいるものは、ほんとうに見事なものが何であるかを忘れないために、こうした作品をふりかえることをしないと、僕たちのすることが、ますます、ほんものから遠ざかることになる。」と結んでいた。

2010年08月23日

21日の「アイヌの文化に学ぶ」講座は、私にいろいろなことを思い出させた。

参加者の感想のなかにこのごろあまり見られなかった言葉がいくつもあった。「すがすがしい時間」「自分を無心に・・」「久しぶりに集中」「成就感ということばを使っていい」・・・などなど。これらの言葉にかつての自分の教室を思い出させてもらえたが、言葉の一つひとつに見合う教室は容易に浮かんでこなかった。

小川さんの講話を聴きながら、堀田善衛を思い出した。就職して数年後、福島で全国教育研究集会があり、開会の記念講演は作家の堀田善衛だった。堀田は、講演の冒頭で、孫の噛んでいたチョコの「ディスカバリー」という品名を取り上げ、「歴史上、1492年、コロンブスのアメリカ大陸発見と言うが、アメリカには既に先住民はいたじゃないか。何がディスカバリーか。あの言い方はヨーロッパ中心主義の史観に基づく言い方だ」と言い、聞いた私は飛び上るほど驚いた。大学まで歴史を学んでいながらまったく考えたことがなかったのだ。私に、「学ぶ」ということ「教える」ということの問い直しを迫るに十分すぎる話だったのだ。

2010年08月16日

「人間と教育」(民主教育研究所刊・10年夏号)に「オランダの教育と日本の教育」(リヒテルズ直子著)が載っており、日本の教育を考えるべきオランダの教育のさまざまな事実が紹介されていたが、その中に引かれているユニセフ調査(2007年)結果の日本の子どもについての数字に、猛暑の中、いっとき体が寒々とするのだった。

その驚くべき結果の一つが、「孤独を感じる」という日本の子どもの比率の29.8%である。他の国は5~10%であり、オランダは2.9%。

日本の子どものおおよそ3人に1人が「孤独を感じている」ことになる。子どもにそんな思いをさせて平気でおれるわけはない。そうさせているのは私たち大人なのだから。

      ふるさと    大木 実
桑畑の向うにとなりの家がある/日のくれ 煙があがり燈火がつく
縁の雨戸を繰りながら/「おうい」と大きな声で呼ぶ/しばらくして「おうい」と返事がある/「あしたまた遊ぼうや」/「遊ぼうや」/その家に 宋ちゃんという友だちがいた ――
山はくれ/鳥屋のとりたちもねてしまった/そしてせせらぎの聞えるあたり/今夜も星が美しい

私の子ども時代はこの詩そのものだった。そう言っても、「昔と違う」と一蹴されるだろうが、どんな世であっても、「おうい」「おうい」と交わし合える子ども時代にしてあげたいと切に願う。

2010年08月12日

アイヌ文化講座の参加希望者数が満たされないことが気になるのだが、昨日からセンターを閉めることにした。そこで、しばらくぶりに古本屋にリュックを背に足を運んだ。

今日は、買いこんできた中の一冊「山びこ学校から何を学ぶか」(須藤克三編・1951年)を読んでいるが、編者・須藤の「あとがき」の一部を少し長いが抜いてみる。

「教育者に案外『山びこ』のケチつけが多く、一般の人々が、素直に感動し、率直な評価をしている事実を見聞しました。たまたま教育者以外の人が『山びこ』をほめたり、支持したりすると、教育者は『素人が的はずれなことを言っている』といった態度を露骨に見せているようでもあります。」「大衆の支持を受ける教育が、教育者によってケナされ、黙殺されるという事実は、どう考えてみても首肯できないことの一つですが、『山びこ』に対する大衆の関心と支持というものは、同時に、『山びこ』をケナす教育に対し、いかに不満をもち拒否しているものだと言えないこともないようです。教育というもの、少なくとも義務教育というものは、つねに大衆とともに在らねば意味をなさないでしょう。」

この本の執筆者は多いが、私の知っている教育学者は、大田堯・宮原誠一・船山謙次の3人だけ。現場の書き手は見当たらない。大田さんは、結びで「たまたま無着君の作品と人にふれ、われわれ自身の不勉強を痛感するので、その反省のために筆をとった」と書いている。

2010年08月06日

明日から東北民間教育研究団体の集会が秋田会場で始まる。会場は6県持ち回り、今年は59回集会だ。私の参加した秋田の最初は第17回の大滝温泉での集会。前年の浅虫につづいて仲間と宿泊費を惜しんでテントをもっての参加。翌年の福島岳温泉もテントだったが、設営が終わるころから豪雨になりテント内に浸水、我慢できなくなって宮城の宿舎に避難したのだった。そんなことをしても多くの仲間の中の一人であることに誇りを感じて3日間を暮らした。全国に名をはせている研究者や実践家に出会うだけで動悸が激しくなる。何も知らない私には話の全てが新鮮。吸い取り紙のようになんでも自分のものにしないでおれない。ただただ聞くだけ。こんな繰り返しの中で、しだいに私の「学び」が身についてきたように思う。自分の仕事をもっての参加はしばらく後になる。

2010年08月01日

林光さんからハガキをいただく。公開授業の報告ブックレットをつくらせていただきたいとの願いにご快諾を得る。「事実誤認があるかもしれないから作成見通しがたったときに見せてほしい」と書かれてある。

これで、林光さんによる高校生相手の公開授業「ひとりひとりの憲法」を会員外の方にも広く知っていただけることになることをうれしく思う。

とは言え手放しで喜んでおれない。あの林さんのすばらしい憲法の授業をどのような形でブックレットにまとめあげるかが大きい課題になるからだ。とびきりいい材料だから必ずよいものに仕上がるとは限らない。猛暑の夏に加えて、急に燃えだした己の体熱とがグルになって襲いかかってくる感じだ。

多くの方の知恵と力をお借りしながら、完成した時の爽快感を夢にさっそく仕事に取りかかりたい。

2010年07月26日

戦後教育実践書を読む会のためのリストつくりを始めた。大げさな言い方に聞こえるが簡単な年表づくり。その作業をしていて大いに驚いたのは、手元の何冊もの戦後教育史を読んでもかつて私を揺さぶった実践書についての記述はほとんど見られないということ。つまり、私の頭にあるいくつもの実践書は教育史の中にはきちんと位置づけられてはいないのだ。熱に浮かされたように身銭を切って遠くの学校まで走り回った頃のことはまだ鮮やかに残っているのに。教育史のなかでどうしてそんなものなのか、読む会がスタートしたらゆっくり考えてみたいと思う。

ホームページを開いて4週間になるが、こちらからの一方的な押し売りであることと、会員は教育関係者だけではないのに、内容が教育実践の域を広げられないでいることが少なからず気になっている。

ホームページをのぞいて言いたいことなどおありだろうにそれを書ける欄をつくっていない。「お問い合わせ」のメールを使ってどんどんお書き頂ければありがたい。

2010年07月21日

2・3年前から事務局会議で話し合われていた「アイヌ文化に学ぶ」会が、催し案内のような内容でやっと実現できることを喜んでいる。アイヌ文化振興・研究推進機構が2人の講師派遣を快諾してくださり、宮城県教育会館と共催で可能になった。非力なわが研究センターだけではどんなにがんばってもこの種の学びの会をつくることは無理なのだ。

先日会ったMさんは、「以前、小川早苗さん(今回の講師のおひとり)のアイヌ紋様展を観に東京に行ってきたことがある。一つひとつの紋様のすばらしさに心を打たれた。今度の会には友だちを誘って参加する」と話していた。

何でも同じだろうが、その実際に触れるまでは迷いや心の距離があっても、いったんその場に自分を立たせてしまえば満足感で充たされることが多いだろう。Mさんからは仲間5人との参加申し込みがあった。

せっかくの機会なのにA・Bコースともに定員30名の学びの会にせざるを得ないことに少々心が痛む。

2010年07月17日

本年度の活動方針のなかに新しく「戦後の教育実践書を読み合う会」をつくることを入れた。これをどう具体化するかを事務局会で話し合った。現場の方たちと読んで話し合いたいゆえに、いつ、どうすればそれが成立できるか容易に名案は出てこない。月例で土曜しかないとまとまりつつあるが、月1というとき、まとまった実践書をどう読み合えるかもまた工夫がいる。できれば夏休み後の少しでも早い時期にスタートしたいのだが・・・。

雑誌「教育」の1956年8・9月号に大田堯さんの「戦後の教育実践を検討する」が掲載されている。そのなかで大田さんは小西健二郎の「学級革命」にふれ、「ここを場として、子どもの埋もれた学習意欲がほりおこされ、無感動にとじられていた魂に感動の波をよびおこさせていくのだ」と書いている。半世紀後の今も学級担任の闘いは少しも変わるはずはない。とすれば、この会を開く値打ちは十分あると秘かに思っている。もちろん、その他の実践書についても同じことが言える。

2010年07月13日

研究センターに去年強力な助っ人集団が誕生した。今日はその10回目の集まり。メンバーは6人。ほとんどは退職1年の会員。現場の若い人たちにこれまでの宮城の優れた財産を広く届けることを願う人たち。

その話し合いが基になってこのホームページは開設へとすすんだのだ。

今日の話し合いは、教育実践の部屋と資料室をどう充実させていくかが中心に。

学習指導要領に忠実につくられた教科書べったりの今の教育内容は教師にとっても子どもにとっても幸せなこととはいいにくい。これが徹底されればされるほど、教師自身が別の世界の存在に目を向けずに進み、子どももまた開かれた世界に気づかずに過ごすことになるだろう。こんなことを想像すると目の前が暗くなる。学校は囲い込みに必死になるのだが、成功していると思われる学校にはそれがつくる大きな落とし穴が「教育の仕事」にはあるのだといつも思いつづけたいものだ。そんなことを考えてもらえる実践をも多くの教師に届けたいと願う助っ人たちなのである。

2010年07月09日

「通信読みました。林さんの公開授業でのお話、すばらしかったですね。よい企画でした。高校生の感想もなかなかよかったです・・・・」

通信59号の感想を第一番に電話で話してくださったのは、教育学者の堀尾輝久さん。わが研究センター会員のおひとり。届いてすぐお読みいただき、すぐ電話をくださったのだろう。

ご感想を伺いながら、林さんの卓抜なお力によってつくりあげられた公開授業であり、その事実を報告しただけと自認しながらも、つい自分たちがほめられているような錯覚に陥り、堀尾さんのひと言ひと言に体が宙に浮いていく感じがしてくる。(この年をして・・)と自分を抑えようとするが電話の後までしばらく浮きっぱなし。そんなバカ丸出しの自分をこの欄に書いて更に人目にさらそうというのだから、どうしようもない大バカか・・。

2010年07月05日

通信59号発送作業。通信発送のたびに清岡さんが悩むのは会費納入依頼書を入れるかどうか。人さまざまと考えると、「知らされた方がいい」と簡単には紙をはさめないのだ。オレはズルイのでいつも答えにならないことを言って逃げている。

59号は「林光さんの公開授業」の報告。授業中のピアノの音はどうしても伝え得ない。その場にいていただくこと以外にないことを通信をつくりながら考えると、高校生50名参加はなんともうれしい。もちろん、150名の参観者も。

この会のテーマは「憲法って 何なんだろう」。林さんが「憲法」という言葉を使ったのは授業の最後。それでも、高校生Sさんの感想に「憲法の話って何をするんだろうと思っていましたが、憲法って、つまり、その人の考え、信念、個性なんですね。私も光さんのように、しっかりとした自分だけの憲法をもちたい」とある。

憲法だけでなく、教える・学ぶということはどうあればいいのか、少なくとも「教科書をなぞることではないですよ」と林さんは私たちに示してくれたような気がする。

2010年07月02日

ホームページ公開 昨日から。清岡さんとおそるおそる開いてみる。あった! これまで内輪で見ていた時と少しも変わりないのに年甲斐もなく少々興奮。

会員で、親の介護のために仙台を離れたSさんから歌集をいただく。環境問題に取り組んでいたSさんらしく身の周りの動植物が多く登場する。直線的な小気味よい表現。歌に引っ張られて読み進めていると、とつぜん「教師」が素材に。元教師のオレは鋭い太刀先にしばしストップ。

・愚かしき教師のごとき剪定をくりかえしおるきさらぎの庭
・内心の自由はあるゆえ職務として歌うべしとぞあわれ教師はまだあるあるのだ。

広辞苑は「剪定」を「果樹・茶・庭木などの生育や果実を均一にし、樹形を整えるため、枝の一部を切り取ること」と書く。「樹形を整える」「枝の一部を切り取る」、学校の日常をいろいろ想い描くうちに身が縮んでくる。

2010年06月26日

第17回総会、1時過ぎから1時間程度。2009年度は24名もの新規会員。そのためか準備にも力が入る。総会参加者も去年よりは多くうれしい出発。「開設するホームページによって、よい仕事をしている仲間、したいと願っている若い人たちをつなぎ励ますものにという期待。よい仕事をしている仲間・学校を知りたいという希望」等が出された。

学校教育の内容がぎすぎすしていることは子どもの世界もそうなっていること。これで心豊かな子どもたちにできるか。こんな現状を切り拓くためにもセンターへの期待・希望にどう応えるか。体に力が入る。幸い若い人たちの役に立ちたいと集まりつづけている“OB”数人の助っ人の存在は心強い。そこからの発信が何かを動かすだろう。

記念講演は田中孝彦さん(武庫川女子大学)。演題は「『子ども理解』-そして教育実践・教師像の今日的課題」。現在の教育の問題を指摘したうえでの子どもや教師の積極的・肯定的な事実の話は明日への力となる。世の中、あまりに否定的な面だけ取り上げる人が多いのではないか。それに共感するだけでは何も変わらない。一歩でも二歩でも歩くこと。歩くこと以外に光は見えてこない・・と自分に言い聞かせる。

2010年06月23日

総会の準備。夕方、清岡さんと雑談。話は林光さんの公開授業のことをふりかえりながら今後のセンターの活動にすすむ。

センターではどなたにお願いするときも薄謝。林さんも同じだったが、林さんには高校生への公開授業に興味を示していただけた。結果は、参加した高校生も参観者もみんな喜んでくれた。(林さんにとってはどうだったろう・・)。

通信掲載のためにテープを起こしたが、話の展開はすばらしく、どこも省けない。すべて載せることにした。途中、CDを2度使ったところがあったが、「もっと高く!」と係に指示する林さんの声は「怒声」とも言えるもので、音の世界に生きる方、指揮者の一面を瞬間に感じて驚いたと言うと、「僕もでした」と清岡さん。このことも伝えたいことだが通信ではどうしても無理だ。この瞬間の出来事を耳目にすることができるかどうかは人間にとって小さくないのではないか。

雑談は、「金のないわがセンターはオレたちの企画力が問われる、その力を枯渇させないようにしなくちゃ」ということで終わりになった。

2010年06月18日

朝、出がけに出浦さんから電話。一昨日の電話では今日はゆっくり家で横になっていると話していたのだが、今日も体調がすぐれないという。運営委員会を休ませてほしい、「センターの将来構想」に関する話は宮教組の斎藤さんに頼むからとのこと。4時からの運営委員会では斎藤さんに話をしてもらう。センターの仕事は、中にいる者だけでは何ほどのこともできず、多くの方の支えによって成り立っていることをこんなことに出会うたびに強く思う。会の後に話をしようと思っていた2つの別件は後送りになる。

総会を前にしての運営委員会だったのに新年度の活動方針をとうとう文字にして出せなかった。以前はやらなければならないことは寝ずにもやったのに、いつからこんな体たらくなオレに・・、情けなくなる。

通信の仕事もたくさんの方に書いてもらうことでなんとか形にできてきている。夜、初校。

2010年06月16日

通信59号の作業も追い込みに入った。原稿がまだそろわない。「ひと言」は中森さんにピンチヒッターを頼んだ。林光さんの授業テープを聴いた。要旨にまとめるためだったが、どこも、ひと言も略せない。そのまま読者に届ける責任が私にある。ピアノの音を一緒にできないのが残念だ。

帰りのバスを降りて歩いていると、突然、ワカナちゃんから「オカエリナサーイ」と声が降ってきた。私の住んでいる小路ただひとりの1年生、いやたったひとりの小学生だ。会うたびに「学校はおもしろいか」と聞く。すると、決まって声高く「おもしろい!」と返してくる。そのたびに(よかった!)と思う。

家に「みやぎ児童文化の会」通信229号が届いていた。筆者の菊池鮮さんは健在だ。鮮さんは書く。

「・・人間も変わるわけだ。体も頭も、どんどん使わなくてもいい方向に進んでいく。するとだ。人間の体にも変化がおきてくる。やらなくてもいいところは退化していく。そして、残ったところが異常に発達しないか、と俺はおそれる。それは人間のどの部分か、精神的な面である。つまり、かぎりなく人間はワガママになっていくのではなかろうか。・・」

読みながら我がワカナちゃんの顔がうかんだ。ワカナちゃんはまったく心配ないな。