2010年10月

2010年10月28日

岩手の友人から「ひらつかこうぞう童話集『けん太は二年生』」が届いた。亡くなった仲間の残した文を集めた追悼の文集。付録として「ちいさなおはなし」もはさんであった。

私は平塚さんとは雑誌「教育国語」に「詩の授業のすすめ」のテーマでの低高学年連載を分担担当し、たくさんの教えを受けている。「ちいさなおはなし」からひとつ紹介。

テスト
熊の子が、町の学校にはいりたいといってやってきました。
校長先生が、さっそくテストをやってみることにしました。
まず、『テスト』とかいてあるカードをみせて、
「これを、読んでごらん」
といいました。すると、熊の子は、でっかい声で
「いじめ」と読みました。
「きみきみ、そんなに大きい声をださんでもいい」
校長先生は、そう注意してから、
「では、これを読んでごらん」
といって、こんどは『いじめ』とかいたカードをだしてみせました。すると、
「テスト」
と、またでっかい声をだしました。
- 校長先生は、テストをやめました。

著者と子どもたちの教室が浮かんでくる。こんなお話をつくっては子どもたちに読んできかせたのだろう。子どもたちは毎日のように「今日のお話は!」と催促したに違いない。平塚さんはそれに応えるためにせっせとつくったのだ、「ちいさなおはなし」を。教室はいつも先生と子どもたちのおしゃべりで花が咲いていたのだろう。子どもたちはよく聞いてくれる先生に先を争ってお話を聞かせたにちがいない。それが、「ちいさなおはなし」「けん太は二年生」の童話に結実していったのだろう。

先生とたくさん話ができることは子どもたちにとって最高の幸せであることは昔も今も変わるはずはない。「忙しくて、子どもたちとしゃべれない」などという状況があれば教育の危機だ。幸せを阻害するものがあれば体をはっても、子どもとのしゃべり場は守りたいものだ。

2010年10月23日

22日の朝日新聞・声欄「国会議事堂もっと開放したら」を読んだ。投稿の趣旨は、蓮舫大臣の国会議事堂内での写真撮影問題に関連して「国会議事堂は国民の財産である。審議には配慮し、積極的に開放することを望む。開放によって国民が政治を身近に感じる効果も期待できるかもしれない」というものである。

投稿者のEさんは私とあまり年齢の違いはない。この問題の質疑に貴重な時間が費やされる光景を私は苦々しく眺めはしたが、この方のような柔軟な想像はまったくもつことがなかった。Eさんの言うように国会議事堂が開放されていればつまらない問答など耳にすることがなかったうえに、議事堂開放は本当に「国民が政治を身近に感じる」ようになるだけでなく、政治家をも国民に近づけるかもしれないように思う。

私がかつて教科書検定の結果を聞きに文部省(当時)の建物に入ったとき、文部大臣室の階のエレベーターの前から大臣室まで赤いジュ―タンが敷いてあったのを見て驚き呆れたことを思い出した。

すべてこんなことの一つひとつが国民の代議員である人たちの特権意識を増幅させ、果ては自分の人間性までも歪めていくのだろう。これは国会議員だけに限ったことでない。バッチひとつが、名につく役職名までが、簡単に人を変えてしまっている事実は身の周りに万とある。私自身は想像の域を出ないが、よほど気をつけないと校長室などという別室なども危ないなと思う。

Eさんのようなセンスをうらやましく思うだけに終わらせず大きな刺激と受け止め、無理かもしれないが、枯渇している自分の想像力を豊かにしなければならないと思った。Eさんの「声」の文に感謝だ。

2010年10月17日

22日の朝日新聞・声欄「国会議事堂もっと開放したら」を読んだ。投稿の趣旨は、蓮舫大臣の国会議事堂内での写真撮影問題に関連して「国会議事堂は国民の財産である。審議には配慮し、積極的に開放することを望む。開放によって国民が政治を身近に感じる効果も期待できるかもしれない」というものである。

投稿者のEさんは私とあまり年齢の違いはない。この問題の質疑に貴重な時間が費やされる光景を私は苦々しく眺めはしたが、この方のような柔軟な想像はまったくもつことがなかった。Eさんの言うように国会議事堂が開放されていればつまらない問答など耳にすることがなかったうえに、議事堂開放は本当に「国民が政治を身近に感じる」ようになるだけでなく、政治家をも国民に近づけるかもしれないように思う。

私がかつて教科書検定の結果を聞きに文部省(当時)の建物に入ったとき、文部大臣室の階のエレベーターの前から大臣室まで赤いジュ―タンが敷いてあったのを見て驚き呆れたことを思い出した。

すべてこんなことの一つひとつが国民の代議員である人たちの特権意識を増幅させ、果ては自分の人間性までも歪めていくのだろう。これは国会議員だけに限ったことでない。バッチひとつが、名につく役職名までが、簡単に人を変えてしまっている事実は身の周りに万とある。私自身は想像の域を出ないが、よほど気をつけないと校長室などという別室なども危ないなと思う。

Eさんのようなセンスをうらやましく思うだけに終わらせず大きな刺激と受け止め、無理かもしれないが、枯渇している自分の想像力を豊かにしなければならないと思った。Eさんの「声」の文に感謝だ。

2010年10月13日

私は子どもとのことで、辞めてもなお抜けることのない棘の痛みをいくつもかかえる。卒業を前にして転校して行ったK子のこともだ。いじめに耐えられないがその理由で、私のことばはもう聞いてもらえなかった。

茨木のり子に「癖」という次のような詩がある。


むかし女のいじめっ子がいた
意地悪したり からかったり
髪ひっぱるやら つねるやら
いいぃっ! と白い歯を剥いた

その子の前では立往生
さすがの私も閉口頓首
やな子ねぇ と思っていたのだが
卒業のとき小さな紙片を渡された

ワタシハアナタガ好キダッタノ
オ友達ニナリタカッタノ
たどたどしい字で書かれていて
そこで私は腰をぬかし いえ ぬかさんばかりになって

好きなら好きとまっすぐに
ぶつけてくれればいいじゃない
遅かった 菊ちゃん! もう手も足も出ない
小学校出てすぐあなたは置屋の下地っ子

以来 いい気味 いたぶり いやがらせ
さまざまな目にあうたびに 心せよ
このひとほんとに私のこと好きなんじゃないか
と思うようになったのだ

その後一度もK子に会っていない。K子はこの詩に出会うことはなかったろうか、あのいじめた子が「菊ちゃん」と同じだったのではないかと考えることはなかったろうか・・などと、この詩はK子のことにいろいろな思いをもたせた。自分の体から抜くことのできない棘を1本でも抜き取り、痛みを和らげたいためだったとしか言いようはないが。

2010年10月08日

国会中継を見るたびに未来への希望だけでなく人間への信頼・期待まで失う感じをもたされるのはなんとも淋しい。そんな気分を吹き飛ばしてくれたのが、鈴木さん根岸さんのノーベル賞受賞。希望は捨ててはならんと叱咤された思いだ。しかも、すべてカネがもの言うかのような居心地の悪い世の中で、『国のお金で研究したものだから』と特許はとらずじまいだったとのこと。「産学協同」だけが強調・評価される昨今、その他の研究者のことが気になっていた自分にはこれもたいへんさわやかな贈りものに思えたし、行政の研究者観が変わるささやかな期待もふくらんだ。

ノーベル賞というと湯川さんをすぐ思う。終戦4年目、中学2年生の私が初めて聞いた賞だった。新聞・ラジオで知るだけでその実は想像も難かったが、毎日の生活に精一杯の日々を過ごしていた私たちへの大きな夢のプレゼントだった。

何年か後、朝日新聞に湯川さんの自伝「旅人」の連載が始まった。毎日楽しみに読んだが、そのなかで、中学(旧制)までの湯川さんはたいへんな文学少年だったことを知って驚くとともに、勝手に、(そうか、文学が自然科学のベースになっていたのだな)と変に納得したのだった。

鈴木さん根岸さんたちの受賞を機に、現在の受験教育は確かに人を育てているのか、そして、人を育てる教育はどうあればいいのかを、この際本気になって考えてみていいのではないか。教育を「ゆとり」とか「つめこみ」とかでくくった言い方にしないで・・。

2010年10月03日

井上ひさしが亡くなってもう5カ月を過ぎる。著書や関係する本をぽろぽろと読んでいるが、時間が経つにつれ惜しい人をの思いがつのる。

彼は、中学時代、亡父の蔵書を濫読、そのうちのひとつが坪内逍遥訳「シェークスピア全集」。高校時代に観た映画は千本。「キネマ旬報」などに投稿、しばしば掲載されたという。

井上と似たような中学・高校時代を過ごした人は他にも結構いるのだろうが、学校・家庭そして世間まで囲い込みがひどくなっている子どもの今は、相当な覚悟がないと井上的中高生活は難しいだろうなあ。

井上とほぼ同年代の私の場合は、家にあったのは「講談全集」と「大衆小説全集」の2種だけ。小学校時代、布張りの表紙がぼろぼろになるまで読み、中学は野球漬け。天地の違いだが講談物でもそれが本好きにしてくれたと思うと悔いはない。

教師になってからは、私自身が子どもらの読書環境だということを常に意識してきた。それはまた私の本への興味をつなぎつづけ、読書領域も広げてくれたと思う。ある同級会で飲んでいる最中、わんぱく坊主だったW君が「『漂流』はおもしろかったなあ!」と叫んだ。突然だったのでびっくりしたが、以後の酒はいちだんとうまかった。「漂流」は吉村昭の作品でWたちは6年生。暇を見つけては読みつづけ、終えるに3か月かかったのだった。