2010年9月

2010年09月30日

今朝の河北新報に「教員免許更新制を継続 文科副大臣 ねじれで廃止法断念」の見出しの記事があった。私は「廃止する」という民主党政権の考えを学校・教師のために歓迎すべきことと喜んでいたので、この発言を非常に残念に思う。「ねじれ国会」を理由に早々と引っこめるということは、それほど真剣に考えていなかったのだなとも思った。こんな調子ではその他の教育政策についてもこれまで同様か・・と体の力が抜ける。

「更新制の講習は有益だった」という受講者の投書を朝日新聞で目にしたことがある。目を疑い、今まで本気な学びをしたことがなかったなと思いながらも、学びが有益だったと言っていることを非難はできない。しかし、このような受講者の声を免許更新制度の是認と結びつけるのもあまりに軽薄。

学びを欠いて教師の仕事は成り立たない。だからこそ、教師の教育研究は常に保障されなければならない。現在の問題はこの学びが保障されていないことにある。それは更新制度を導入することで脅迫的に学ばせて済むものでなかろう。どうしたら、学校に、教師の一人ひとりに教育研究を確立できるかが問われているのであり、あらゆる場で創造的に取り組むこと以外に解決の道はあるまい。

末川博は第7回全国教育研究集会(1958年)の記念講演の冒頭で、「未来を信じ、未来に生きる。そこに教育がある。すなわち、教育は、その成果を将来に期するものであって、たとえてみれば、種をまき、苗を育て、そして秋のみのりを待つようなものである。そのような未来を信じ未来を生きるところに教育の本質的なものがあるのだから、教育は、現在の問題を解決するために権力がたずさわろうとしたり目前の利害によって動くことのはなはだしい政治や実業とはまったく違うものをもっている」と言った。

いま教育は「政治や実業」に動かされている。しかも、それが教育の役割だと言わんばかりに万人がせっせとなっている。子どもがかわいそうだ!将来が心配だ!

2010年09月24日

前回、教科書採択にかかわって、私が参加した生活科教科書検定の実際を少し書いた。その生活科が実施された翌年、私たちは生活科学習のサークルをつくった。第1回が1993年9月11日。月例の会で、以後ほそぼそと今もつづく。メンバーから退職者がつづくようになり、会を閉じる提案をしたが、それでもつづけようと一致、会場を転々としながら今年17年目になる。つづけてもらっているおかげで現場を離れた私の大事な学びの場になり、この会に支えられてあまりグラグラせずに生きられていると思っている。

先の9月の例会では、Yさんから出された「2年5組の大発見 2010」について話し合った。通学の往復で見つけたものを大きい短冊用紙に書いて教室に貼っていたものを夏休みに打ち込んだそうで、A4で10枚の資料。すべて子どもの文。

4月21日 昨日おひるごろ児童館のサクラがさいていた。色は白で花びらがいつつついていました。きれいでした。 なな

に始まって

7月20日 モチノキにみがついていました。形は丸いです。大きさはおやゆびぐらいでした。ハナミズキも見つけました。みもついていました。色は赤でした。 かんた

で終わっていた。

私たちは、現場にそっぽを向かれた生活科教科書で大切に考えたのは、「受け売りや孫引きの『知識』を与えることではなくて、自然やものごとの理(ことわり)を翻然と悟るように感じとらせること」だった。

家に帰って、Yさんの子どもたちの「発見」の文を私は声に出して読んだ。読むごとに心が洗われ教室の様子もしぜんに浮かんできた。

2010年09月18日

来年度からの小学校使用教科書が決まった。宮城県は8採択区に分かれているが、国語・社会・算数は全区で「東京書籍」。その他の教科でも東京書籍が目立つ。どうしてこのような結果になるのかはわからないが、東京書籍はそれだけ各教科書ともに他を圧する内容ゆえとしか考えられないが、それにしてもやや奇異の感はぬぐえない。

かつて、生活科が教科として誕生した時、私もG社の教科書編集に参加し、呼び出しを受けて文部省(当時)に出向き、教科書調査官から検定結果を聞かされたことがある。調査官は冒頭「申請12社のうち、11社はほとんど同じで、1社だけ甚だしく違う。その1社があなたたちのだ」と言い、修正個所の指摘は、1・2年用あわせて100か所を超え、「よって不合格。もし修正する気があれば、指摘箇所を75日以内に修正して提出するように」とのことだった。そのうえ、「小学校の先生は、1ページに1か所以上教えるヒントがないと教えられませんよ。あなたたちのにはそれがない」と小学校教師の私を前にシンセツな助言までもらった。

その後、指摘箇所について、私たちの趣意を曲げない努力で修正し、やっと検定を通過したが、思うような採択が得られず、今は教科書界から撤退して姿はない。しかし、この教科書づくりの体験が私に残した知の財産はそれまでになく大きかった。

教師の教科書選択も一人ひとりが本気で取り組むことができれば教師の力量を飛躍的に高めると思うのだが、なぜかそうなっていないことがいまだに気になる。

2010年09月13日

樋口さんの講演「憲法という人類の知慧」が終わった翌日、Kさんからメールが入った。「聞いて良かったです。このごろいろいろあって、あまり調子がよくない状態でした。」とのこと。その不調の因としての学校内外のことが連ねてあった。

校内では管理者による「こまいチェック」は数知れない、という。夏の教育課程伝講会では「すべての教科で道徳を教えること、そのための全体計画を作れ」と言われ体の力が抜けたが、これに限らず「○○計画」を作れという指示が増えてきている、と。

メールを読みながら、子どもと真向かって必死のKさんの姿と合わせて人影が見えず音も聴こえない学校が浮かんできて、私まで落ち込んでしまった。

これに似た話は多くの仲間からよく耳にする。返すことばがなく困っていつもオロオロするのだが。どこもかしこも縦の関係だけが強化され、「指示」を堅持することが仕事になる学校像の想像はた易い。教育創造の発揮できない学校での仕事に誰が誇りをもてるだろうか。教師が誇りを持てず憂鬱だけを感じる学校が子どもにとって楽しい学校になるはずはないと思うのは思いすごしになるだろうか・・。子どもはそんなにヤワではないとも思っているのだが。

2010年09月09日

教育学者の田中孝彦さんが著書「子ども理解」の中で「教師の教育実践の質を最終的に左右するもの、それは、結局は、子どもと向き合ったときに瞬時に発動する、直感的な子ども理解のセンス、子どもが求めている教育実践を直感的に構想するセンスの豊かさ・確かさではないだろうか」と書いていた。

私もほぼ同様のことを大事に子どもたちと向き合い努力をしてきたつもりだったが、今になっても心の奥底に澱のように沈み、繰り返し胸を突き刺してくる数えきれない教室の出来事をもつ。田中さんの言う「センス」はどうやって磨けるか。私のような凡庸な教師は、自分の努力だけではセンスは磨けない。職人のように優れた教師から技を盗むに懸命になることや、同僚などからうるさいと思われるほど聞くということしかないように思う。

私の一例をあげると、30代の半ば、ある日の朝会で折れた太鼓のバチを手に、1500人の子どもたちの耳と目をバチ一点に集中させる話をしたHさんに非常に驚かされたことがあった。翌年の担任希望は「Hさんと同学年にしてほしい」とねばり、願いはかなった。それもHさんと隣りあう教室に。その年の私はこれまでにない無形の収穫を得た。

2010年09月01日

仙台市東部にあるA保育所を写真を撮らせてもらうためTさんと訪問。音楽サークルHさんの時間は既に始まっていた。玄関を入ると、ピアノの音が聞こえる。ホールは年少組の子たちであふれピアノに合わせて休みなく動いている。20分程度で年長組との交代。2階階段に年長組が現れると、いつの間にか年少の姿は消えていた。Hさんのピアノは切れ目なく年長へと移っていく。

たいへんな運動量だが子どもたちに疲れは見えない。でも、昼食後の午睡の時間の子どもたちの姿がしぜんに浮かぶ。

男の保育士のYさんにちょっとの間を盗んで話しかける。まだ経験半年だというが子どもたちと一つになってうごく様子は見ていて気持ちがいい。「浪人をするとき、親に卒業後何をするかをはっきり決めろと言われ、子どもが好きだから子どもを相手にする仕事を目標にした」と言っていた。「この仕事をやれてよかった」と充足感が体に満ちていた。こんな伸び伸びした新卒教師に出会えるのはなかなか難しい。子どもたちと一体となり汗まみれになっているYさんがどうして日本の学校に見つけにくくなったのだろう・・・。